Infomation and DAIRY

手持ちの本の中から気になる概念を拡大する試み。自分なりの「読み」と「絵」で対象に接近してみたいと思います。

 


Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.019 『二律背反』 

:

 今回まで色川武大さんの『うらおもて人生録』から。「誰でもすぐに納得するようなことを書いたってしょうがない。そんなことはたいがい、なんらかの意味で不正確だ。人生の万象(さまざまな形)はいずれも、ちょいとむずかしい。なぜなら、真実というものはすべて、二律背反(背反する二面)の濃い塊になっているからだ」(『うらおもて人生録』新潮文庫P132)。つまり分かりやす言葉は、どこかを省いているということ。ただ分かりやすいだけで、実際は現実から程遠かったりする。本当に現実を正確に伝えようとすれば、難しくなって当然だということでしょう。さらに人生で出くわす問題は、つねに二律背反の矛盾のかたちで現れてくる。どちらか片方に寄って解決などできないということ。「マイナスを消すと長所も消えてしまうんだな」(『うらおもて人生録』P142)。そんな世界をなんとか伝えようとすると、やっぱり、誰もがすぐに納得なんで出来ない表現になってしまう。しかしそれでも諦めずに、考えを尽くして伝えようとすることが大切なのだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.018 『わかる』 

:

 今回も色川武大さんの『うらおもて人生録』から。「わかる、ってことは、言葉でわかったりすることじゃないんだからな」(『うらおもて人生録』新潮文庫P131)。私たちは言葉で分かった気になる。しかし言葉は言葉でしかなく、あるものを言葉にしているだけです。言葉と経験には大きな隔たりがある。しかし現代は言葉だけで終わることが多い。なので本当の意味での「わかる」に達しないまま、次の言葉がやってくる。

 例えば絵の描き方の本がある。ネットでも読める。それらは言葉にして、整理してある。だから一見分かりやすい。読んで分かったとなる。しかしそれは色川さんがいう所の「わかる」ではない。分かった気になっているだけで、本物の理解からは程遠い。本当の分かるは、経験的な理解。しかし経験を作るのは面倒で大変だから、言葉で済ませてしまう。

 言葉は便利である反面、危険でもある。分かった気になっていたから事故につながる、なんてこともある。人間の思考は言葉でなされる。よって都合のよい言葉を思いうかべて現実を無視している人もいる。これは未成熟な人の常套手段。癖になると痛い目を見るまで辞められない。言葉で分かった気になることは、危険なこと。もっと自分の経験と実感を大事にすることで「わかる」がやってくる。そうなれば言葉に頼らなくてもよくなるのだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.017 『相当なこと』 

:

 今回は色川武大さんの『うらおもて人生録』から。「五十年、ほとんど一生に近い間、変わらずそう思っているというのは、やっぱり相当なことだぜ」(『うらおもて人生録』新潮文庫p21)。これは色川さんが、学校時代の友人たちとの別れが寂しく、いまでもその気持ちを持っている、というくだりで出てくる文章です。なぜ長い間、思いが変わらないことが相当な(価値ある)ことなのか。
 人は考えや行動が変わりやすい。忍耐力や意志の問題から物事が続かなかったり、情報過多や損得判断で、意見や態度がころころ変わったりする。何かを守り継続し続けることは、思った以上に難しい。ゆえに一貫した思いを持ち続けることは相当である、ということでしょう。このような価値観は、思いを大切にする「優しさ」と、それを守り抜く「強さ」(厳しさ)の二つが重なることで、初めて維持されるのだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.016 『Non merci』 

:

  自分のホームページで自分の意見を述べていると、読んだ人から「考え過ぎではないか」とか「厳しい」といった感想が返ってくることがあります。つまりそこまで考えなということでしょう。考えなど必要ない。ただ習慣に従っていれば幸福が得られると。しかし考えないことを正当化している人にかぎって、どこかに不安げで自信を欠いているように見えるのはなぜでしょうか。

 自分のことで言えば、特定の個人批判はほとんどありません。誰が嫌いとかいう概念が、私には殆どありません(もちろん社会的に害のある個人は別です)。しかし社会、組織、構造などに対する批判視点はいつも持っています。それは社会人としての当然の義務です。なぜなら日本は民主主義の国なのですから。そういった批判意識を突き詰めるのはなぜか。自分なりに考えて出した答えは、「人が不当に悲しい思いをすることが嫌い」ということです。不当と付けたのは、人間の成長のために必要な悲しみもあるからです。しかし人々の不当な悲しみは生理的に受け付けがたい。これを減らすには、「出来うる限り考える」ことが必要です。

 たとえば、驚くべき事件が毎日のように起こっています。そのような事件の加害者も、まさか自分がそのような事をしでかす人間になるとは思っていない。しかしそうなる出発点がある。その方向へ数年前から進んでいる。良く状況が分かっていれば、自分で防ぐことは可能です。しかし考えない。なぜなら周りも考えないからです。考えない人たちとつるむと、人は考えなくなる。その集団の中では、考える人が「考え過ぎな人」というレッテルすら貼られる。これは知的怠惰な集団の典型的な防衛手段です。そういった価値観の先に、不当な悲しみが発生する。考えない人だけが因果応報の報いを受けるだけならまだいい。しかし実際は不当にも巻き込まれる人が出てくる。

 考えることを言うと、中途半端に仏教を齧った人が「一切空」を持ち出してきて批判することがあります。これなどは、それまで徹底的に考え勉強しつくしてきて、その先に「すべての知識を捨て、考えも捨てる」というのではない。ただ怠け者を正当化するために都合よく空と言っているにすぎない。この手の詭弁が今は蔓延しています。その人は空でいい。しかしそのことによって避けられない事態が起こる。それを予測して未然に防ぐには、考えるという知恵が必要です。厳しかろうが辛かろうが、考えることを辞めると人は動物の世界に戻るだけです。欲望だけで生きている社会。そんな社会が好きな人もいるかもしれません。しかし私としては、そのような世界は“Non merci”なのです。

 


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.015 『無意識を知る』 

:

 今回は岸田秀さんの『不惑の雑考』から。「自分の無意識は、自分の内側ではなく、むしろ外側にある。自分に対する他人の言動のなかにある」(『不惑の雑考』文春文庫p24)。自分の内側にあるはずのものが、むしろ外にあるという逆説。無意識とは意識できないもであるから、意識で内側を照らしても見えてこない。無意識は意識的な考えとは別の形で、無自覚な行動として外側に出る。だから自分に対する他人の言動のなかに、自分の無意識があるということでしょう。

 人が大人になる。あるいは人生を自分のものにする。こういったプロセスと自分の無意識の発見は、切っても切れない関係にあります。つまり自分を知ることで自己制御が可能となり、他人になろうとすることを辞めて自分自身になる。そのためは、内的な自己分析だけではなく、他人の意見に耳を傾ける必要がある。そこから反省や修正、あるいは自信などもついてくる。岸田さんの表現は、盲点をカバーしてくれるのが私たちの友人である、ということを教えてくれているのだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.014 『自己言及的なシステム』 

:

 今回は柄谷行人さんの『隠喩としての建築』から。「自己言及的なシステムにおいては、最終的な超越または外部はありえない、というのはそれはただちに内部に反転してしまうからである」(『隠喩としての建築』講談社学術文庫 P61)。これは若干ややこしい文章ですが、とても重要なことが述べられています。
 まず自己言及的とはなにか。例えば、他人を指させば、次の展開(「なんですか?」などのフィードバック)がある。しかし自分を指させば、指示したものが指示されるものへと反転し、その反転がさらなる反転(ループ)を呼ぶ。つまり出られない。これが自己言及的な構造です。想像しやすい例では、人が引きこもって外部情報を遮断し、自問自答だけを繰り返す状態は、自己言及的な状態です。さらに個人だけではなく、組織も自己を守るためだけに機能し始めると、自己言及的な構造に陥り内部は破堤してしまいます。

 

 例えば、ある文化施設が新しく作られたとします。施設の利用者がその存在によって助けられる。しかし施設の運営費の問題をカバーすべく、施設の一部を商業用の店舗として貸し出す。そのうちに、運営主体となり、施設の大半を商業用として、優先的に利用するようになる。ここに本末転倒の構造が発生します。
これが脱出経路のない、自己言及的な状態です。当初の存在意義は失われ、自己組織の保存だけが目的となる(手段が目的を食らう)。この自己目的化は、「ウロボロス」(蛇が尻尾をくわえた図)で表されます。この“蛇の環”は古代エジプトにおいて宇宙の象徴とされてきました。宇宙とはすなわち混沌(カオス)をも意味しています。

 

 個人の心理であれ、組織のシステムであれ、真の目的を忘れ自己目的化すればウロボロスになる。ヘビの環は、尻尾へ向かっているうちに頭へ反転し、外部への脱出を不可能にする。この構造から抜け出すには、常に外部から全体を把握し、目的を見失わない(或いは再発見する)ことです。殆どの個人や集団、社会の問題は、この自己言及的な構造に陥る問題との関連が見られます。物事が規格化され、ただ増殖と反復を繰り返すだけの装置となった時、“自己言及的なシステム”という腐敗構造が生まれる。この病的なシステムが世の中に増殖し始める中、それをどう正常化させていくのか。そこに意識を向けることが、個人と社会を“蛇の環”から守る唯一の方法なのだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.013 『悲しい音』 

:

今回は夏目漱石の『吾輩は猫である』から。「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」(『吾輩は猫である』P270)。これは物語の終盤に、猫が考えたことを言葉にしたものです。主人の元へあらわれる珍妙愉快な人々。一見、辛さや悲しさから程遠いように見えても、その人はその人なりの人生がある。そしてそこには必ず辛さや悲しさがあるものだ。この鋭い猫の視点あってこそ、この物語が愉快で楽しいものになっています。これは現実における人生も同じことです。悲しさの裏打ちのない人生は、魅力に欠けたものになる。辛さや悲しさは生きることとワンセットになっているのだと思います。

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.012 『効率化とノイズ』 

:

 今回は数学者の森毅さんの本から。「伝達の効率を考えて情報を精選していけば、結局は貧弱なものしか伝わるまい。情報に重要なのは、むしろノイズだ」(『ひとりで渡ればあぶなくない』ちくま文庫P23)。たとえば夏目漱石の「こころ」の要約を読む。内容は理解される。しかしそこに夏目漱石の小説としての豊かさはありません。なんでも合理的に、効率的にそぎ落としてしまうと、残った芯を支えるものが無くなってしまう。ただそれだけで価値づけすれば、取るに足らないものでも、大事な部分を支えていることがある。これはコミュニケーションの本質を突いているように思います。数字による管理と効率化。そこからこぼれ落ちたノイズにこそ、真の内容が潜んでいるのかもしれません。

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.011 『実存的な問い』 

:

 最近、神奈川県で異常な事件が起きましたが、容疑者は「なんのために生きているのかわからない」と漏らしたと報道されています。これはいわば実存的な問いであり、「答えのない問い」です。しかし人間が生きていくうえで避けられない永遠のテーマでもあります。よってこの実存的な問いを考える力も、生きる力の一つと考えてよいと思います。さらに今ではこういった事件につきものの「小さいころは“良い子”だった」という過去も、実存的な問いに対応できない人格の萌芽を表していると思います。

 イギリスの精神科医、R.D.レインは、極端な「良い子」についてこう述べています。「自分に対する他人の意図や期待、あるいはそのように感じられるものに対する従順さである。これは通常、極端な『良い子』となり、言われたこと以外は何もせず、決して「厄介者」にならず、自分の反対意志をおくびにもださなくなることである。」(『引き裂かれた自己』P148)。つまり極端な“良い子”は「他人の基準に対する消極的な同化」だとレインは言っています。これは自己が完全に奪われている状態です(誰から奪われているのでしょうか)。自己喪失の状態で「答えのない問い」を考え抜くことはできない。実存的な問いの波に乗れず、飲まれてしまう。

 親も未来で子どもが事件を起こすとは思っていない。良かれと思い教育していると思います。しかし、良かれと思ってることと、現実的な影響とのすり合わせこそが大切です。それには知識(暗記)などではなく、根本的に「自分の頭で考える」力が必要です。結局は実存的な問いから逃げると、その問いを考える「形式」がその人の中に作られず、それが代々受け継がれてどこかで暴発する。このような事態から抜け出すには「認識」を得るしかないと思います。答えなき実存的な問い、すなわち哲学的な問いを、日ごろから少しは考えるようにする。表面的なことではなく、深い話が出来る相手を大事にして、自己の在り方を守っていくことが大事だと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.010 『無智が招くもの』 

:

 今回は福沢諭吉の『学問のすゝめ』から。「一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみに非ず、その実は人民の無智をもって自ら招く禍なり」(『学問のすゝめ』岩波文庫p26)。つまり独裁的、暴君的な政治や官僚の在り方は、国民の無知から必然的に現れる災いである、ということ。これは良く言われることではありますが、逆さまにすると、独裁的な人間が、独裁を維持するために取る方法が、周りの人間を無知にするということです。決して勉強して、自立的な判断をもって、自己を大切にせよ、などと厳しいことは言わない。そのほうが都合がよいということです。
 結局、福沢諭吉が言いたかったことは、人々が本物の知恵をつければ酷い社会にはならない、ということです。まさに「学問のすゝめ」の本質がここに現れていると思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.009 『考える』 

:

 テクストの引用から考えを深めていく。これを「どうなるか分からないけどやってみよう!」と思い始めたわけですが(前回のダイアリーは759回で打ち切りました)、最初から精神分析や心理学の本が続いています。もちろんこのような本ばかり読んだり考えたりしているわけではありません(本はだいたい三冊を平行して読むスタイル)。しかしそれらの領域が、現代のような社会にとって欠かせない知識と発見を与えてくれることはたしかです。
 日常で出くわす問題や疑問を突き詰めると、だいたい人間が持つ「考え方」や「心理」に行き着きいます。たとえば、ちょっと考えられないような編集者やデザイナーと仕事をしたとき、「忙しくて余裕がない人なのか」と一旦は終わらせる。しかし対応するごとにある一貫性が感じられる。「そもそもなぜそうなんだ」と考えると、やはり人間のものの考え方の「形式」や「パターン」に行き着く。このように精神分析や心理学の視点でもの考えることの根底には、状況を解決して正常化したいという気持ちがあります。


 精神分析や心理学の話しも、巷に流布するライトなものではなく、より専門的で実践的な話になると、「こわい」という人が沢山います。しかし、より現実的で真実に近づくほど怖くなるという心理は、その領域が対象化(原理の理解)がなされていないことを示しています。いじわるな言い方をすると、そこから逃げて来た。だから怖いと感じる。しかし、むしろその状態で平気でいる人のほうが私は怖いと思います。本来、複雑な社会で自己の舵取りをするのは自分自身です。自分の状態と環境のありようを知って加減する必要がある。これは精神分析や心理学そのものです。それを避け続けたり、コンビニの本に頼っていたら精神的に弱くなってしまうのは当然です。
 現代の問題のほとんどは「考えない」ことから起こっていると思います。先ほどの個人心理の問題にしても、個人が集まって出来る集団思考の問題(フロイトは個人と集団の心理は同じだと言っています)にしても、考えが浅く硬化することによって「現実とのズレ」が生じたときに起こります。このズレを最小限に抑え続ける方法は「自分の頭で考える」ということです。しかし現代はその機会がテクノロジーの発達によって、逆説的に奪われています。今、自分の頭で出来るだけ考え抜いて、それでも分からない時にネットで「検索」する、という人がどれだけいるでしょうか。考える間もなくネットで答えを知るパターンが殆どでしょう(もちろん考えても分かりようがないものはストレートに検索して当然ですが)。


 本質的には自分で考えたものだけが自分のものになる。これはボーヴォワールの考え方と類似します。もし、まったく自分では考えず全て「コピペの論文」のような人間がいたとすればどうでしょうか。それは世界にその人が存在していると言えるかどうか。しかし今やネットの情報をできるだけたくさん収集するほうが有利(得)であるという暗黙の考えすらあります。自分の思考の全体量のうちの殆どがコピペ情報で埋め尽くされてきている。その全てが情報化された瞬間に、その人はうっすらと消えていくというアーサー・C・クラークのSF小説がありましたが、それはまさに予言的な傑作でした。
 やはり現代にふさわしいテクノロジーの恩恵を受けつつ、デメリットがどのように現れるかを知る必要があると思います。しかしまさに便利になり自己都合が押し通せるようになったがゆえに、デメリットが受け入れられない、甘んじて背負えないという体質が出来つつあります。メリットとデメリットは不可分の関係にあり、デメリットを拒めばメリットも消滅する。この単純で普遍的な原理すら、最近は意識されなくなってきています。よって本質的な感動や喜びが得られない。こういった流れを正常化させる方法は一つしかありません。それが「自分の頭で考える」ということだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.008 『意見の尊重』 

:

 今回も河合隼雄さんの『心理療法序説』から。「自分は自分なりに考え、自分自身の考えをしっかりともっていてこそ、相手の考えを尊重できるものなのである」(「心理療法序説」岩波書店p97)。つまり相手の考えを尊重するには自分の考えをしっかり持っている必要がある。裏を返せば、相手の考えを尊重できないのは、自分の考えをしっかりもっていないから、ということです。このあたりは「集団のなかで個人はいかに成立するか」という問題とも繋がってくるので、とても重要な一文だと思います。

 

 まず、なぜ自分の考えを持っていないと、相手の考えが尊重できないのか。それには二つの理由が考えられます。一つ目は「自分の考え」を理解できていないと、相手の「自分の考え」も理解できない。だから尊重できないということです。理解不能なものを尊重することはできない。つまり「主体的な意志」がなければ、相手の「主体的な意志」(違った意見)を許容することはできない。只々「自分と違うなんてけしからん」と思ってしまう。他人の考えに対する許容範囲は、そのまま自分の考えの許容範囲を表しているということです。

 二つ目は、自分の考えが自分のなかで尊重されていないのですから、他人の考えを尊重する余裕がないということです。なぜ自分の考えが尊重されていないのか。これは大問題ですが、結局は自分自身で尊重していないということでしょう。その原因は強い禁止(自分の意見や考えを持つことに対して)や、批判が心の底にあると考えられます。もちろんこの原因は環境要因です。ここで環境要因までは掘り下げませんが、とにかく自己禁止によって、自分が自分の考えを尊重できないということです。流れとしては、外部(環境)からの禁止によって内面に禁止の構造が出来き、それが外部へと伝播していく。

 

 個人の意志を禁止する環境があり、そこから他者の意志を禁止する空気が出来る。それが世間というものの実態だという人もいます。まあ話しは世間にまで行きましたが、とにかく自分の考えや意見を、自分自身が尊重しているかどうか。それが大切になってくるということでしょう。これは些細なことのようで、私たちが住む社会のありようを決定する大きな話でもあります。

 毎回ここで書く文章は、これまでに感銘を受けた本の中から、作者の考えや意志を汲み取り、自分の意見を添えたものです。これは自分なりの自己と他者に対する“意見の尊重”でもあります。個人の意見が封殺される環境ではなく、個人の意見が健全に響いていく環境を作る。それは、個々人がまずは自分の考えを尊重することによって生まれるのだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.007 『自由と従属』 

:

 今回は河合隼雄さんの『心理療法序説』から気になる所を抜き出して考えてみたいと思います。河合さんの本は読みやすいエッセイ風のものから、今回取りあげるような専門書まで、どれを読んでも深さと面白さ(興味深いという意味)があります。なにか本を読みたいけど、読みたい本すらわからないという人は、心理学というジャンルなど気にせず河合隼雄さんの本を読むことをお勧めします(新潮文庫になっているものが読みやすいと思います)。


 「クライアントの心のはたらきを妨害しないと同時に、それによって生じる破壊性があまり強力にならぬように注意することである」(「心理療法序説」岩波書店p12)。これはカウンセラーや心理療法家が患者対する姿勢を言ったもので、つまり心理療法家は患者の心の自由なはたらき(この場合は患者がもつ自然治癒の力を指す)を、専門性を押し付けて邪魔しないこと。しかし、自由な心のはたらきが暴走しないように常に注意を怠らない、ということです。これは心理療法という特殊な環境に限らず、社会のなかで私たちが常に迫られている「自由と従属」問題への有効な処方となっています。

 社会で生きていくためには決まりを守る必要がある。個々人の協調性があって初めて社会は成り立つし、その中で生きていくためには規則を守る必要がある。しかしただ決まりや周囲に従うだけでは、自己の主体性の発揮も、目標設定や自己実現もありません。やはり自由な意志と行動がなければ、ただプログラム通りに動く“機械”になってしまう。「自由と従属」をどのように舵取りするかに、その人の本領が現れると言ってもいいと思います。自由になり過ぎず、従属にも行きすぎず。この尺度をもつことが大切です。


 これは芸術の領域ではもっとも重要な尺度です。創造には自由な発想が欠かせない。しかし制限のないただの自由は「でたらめ」(自由の暴走)になってしまう。ある一定の制限を受け入れての自由であることが大切です。これは川で泳ぐようなもので、川の流れに従属しすぎれば流されるし、逆に流れや浮力を拒んでばたつけば溺れてしまう。環境(制限)を受け入れることで自由に泳ぐことが出来る。そういった本当の意味での自由な状態が、心理療法や芸術の領域での重要なポイントとなっているということです。この二つの領域の重なりは当然だと思います。なぜなら心理療法を受ける人も芸術家も共に、無意識に沈殿する宝を手にして、再び意識的な世界へと浮上するのですから。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.006 『学問の復活』 

:

 結局ボーヴォワールは、「無責任な人がなにをやっても経験は得られない」と言っていたわけです。自己責任という根本的な覚悟の上に生きないと、人間としての成熟がない。つまり幼稚なレベルにとどまるということです。前回の「エージェント状態」というミルグラムの視点を読んで、鋭い人は「ダブルバインド」(No.003)での、親に先を越されて意志を失う女性が思い出されたかもしれません。つまり彼女は操作的に育てられることによって「エージェント状態」なり、それに自ら気付いた時点で発病したということです。

 

 この発病プロセスは、現代人が精神的な病を発病する最も多いパターンだと考えられます。中年になり、今までやってきたことが無駄だと感じられて発病する「中年クライシス」も、まさに世間体や会社によって「エージェント状態」になってしまい、長い時間をかけてある日突然気付くパターンです。よって現代の大きな社会問題である精神病を解決する糸口も、ボーヴォワール型の「参加」や、ベイトソンの「ダブルバインド」、あるいはミルグラムの「エージェント状態」という概念を知ることによって見えてくる。そして、同じ環境でも「エージェント状態」にならない人がいるのですから、環境要因は大きいとはいえ、やはり個人の意志の問題であるという自覚が必要です。

 

 確かに、このような複雑な推理や考えを「そんなことどうでもいいでしょ」(あるいは考え過ぎだ)と捨て去りたい気持ちも理解できます。もちろん私も面倒だなと思うし、このような事をずっと考えているわけでもありません。しかし現実はより複雑であり、必要な時は深く考え抜いておかないと、大事なときに考えが浅くなってしまう。そして精神の舵取りが異様に下手のなる。心が不安定な人はそれが下手な人です。つまり都合よく単純にしか考えないので、複雑な現実に対応できない。普段は考えることを他人に任せているわけです。よって依存傾向がある人ほど考えないし、深く考えることに対する抵抗(反発)を持っている。

 

 残念ながら思考の不足(あるいは過度の教養不足)はその人を依存傾向の人格に降格させてしまうようです。さらにそれを自己正当化するがゆえに成長の機会も奪われる。この自己言及的な構造は次の代へ降りていく。二極化は経済だけでなく精神面でも乖離しはじめています。しかし精神面は自分の意志によっていくらでも成長させることができる。カースト制度のようにどうにもならないものではなく、まさに制御可能な領域です。現代社会の「エージェント状態」が指標とする権威は「富、地位、名声」(つまり世間体)です。それらに支配されることなく思考や教養を高めていく。そこに生涯健全な精神が宿っていく。本来、学問とは試験や就職のためのものではなく、個人と社会を自由にし守ってくれるものです。そういった学問を復活させることが、精神病の問題から社会の安定化までをも包括する、根本的な手立てなのだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.005 『エージェント状態』 

:

 前回は、創造行為への主体的な参加がない限り、対象が自分のものになることはない。さらに自分が現実に存在したことにもならない、という論理展開を見てきました。素朴な考えからすれば、反発も十分考えられます。そこで、この考えがいかに本質的で大切な認識をもたらすものなのか、いろいろな問題解決の糸口を与えてくれるのかを考察したいと思います。

 

 まず、主体的な参加が重要なので、主体的に参加していない場合を考えます。例えば人から命令されて従うだけの行為が、自分のもの(本質的な経験)となるか、という問題です。人からの命令を受けて行動する場合、命令する側とされる側の間には契約関係が結ばれています。何もなくただ命令に従う人などいません。例えば給与や保護の見返りなどがある。よって命令に従った結果は自分のものとはならない。行為の責任自体が命令する側にあるからです。

 フランスの文化人類学者のマルセル・モースは、著書「贈与論」のなかで、未開社会における「交換の原理」についてこう述べています。「スカンディアヴィア文明やその他多くの文明において、交換と契約は贈り物の形で行われる。これは理屈では任意だが、実際には義務として与えられ、それに対して返礼される」(「贈与論」p12<ちくま学芸文庫>)。つまり、返礼の義務を利用して、命令する側は、行為者の結果を収奪する。ただ命令に従うだけの行為は、すべて収奪され自分のものとはならない。この構造内における行為と結果はすべて原因(命令元)へと回帰するのです。これはオリジナルとコピーの関係と似ています。いくらコピーを繰り返しても、その結果はコピーのものではない。それはオリジナルのものです。

 

 そもそも主体の関わりのない「無」責任な行為は、命令する側(権威)とどのような関係にあるのか。そしてどのような心理的プロセスによって行動に移されるのでしょうか。アメリカの社会心理学者スタンレー・ミルグラムは、著書「服従の心理」のなかで、命令する側と実行する側の関係をこう述べています。「服従とは個人の行動を政治目的にむすびつける心理メカニズムだ。それは人を権威システムに縛る指向上のセメントだ」(「服従の心理」p15<河出文庫>)

 「責任感の消失は、権威への従属にともなう最も重要な帰結である」(「服従の心理」p24)。このように、命令する側の願望を実行する代理人になる状態をミルグラムは「エージェント状態」と呼んでいます。つまり主体的な参加を放棄して、ただ決まり事(教科書や手本)や命令に従うだけとなれば、人はすぐに「エージェント状態」に陥ってしまう。そして、行為の結果は、マルセルモースがいうように、命令する側へ収奪され、自分のものとはならない。

 

 前回のボーヴォワールは、主体が創造行為に参加しているときのみそれは自分のものとなる、と言っていました。その意味は、他人の願望を実行するエージェントになり、自己の責任を放棄した瞬間、自分のものとしてなにかを得ることが不可能になるということです。それはただの機械であって主体がない。つまりその人は現実に存在していないのです。創造行為というものが、コピーや盗みではなく、自己の主体と責任が、新しい可能性に関わった時に生まれることは自明です。そして、先のボーヴォワールの言葉に素朴な反発を覚える人がいるとすれば、それは「エージェント状態」にある人だと考えられるのです。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.004 『参加(ボーヴォワール)』 

:

 前回は、精神病理学の本からの引用だったので、少々ヘビーでした。しかし現代はネットの発達によってグーテンベルク以来の情報革命が起きています。つまり社会が精神的な成熟を待たずにガラッと変わってしまった。よって状況の整理なしにただ社会の流れに従っていては、精神を病むことになる。だからこそ精神病理学が蓄積した貴重なデータを参考にすることで、今まで見えていなかった構造が明らかになる。そこが大切だと思います。  
 今回はシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『人間について』から気になるワードを取り上げていきたいと思います。ボーヴォワールは哲学者サルトルの事実上の妻であり、自身も哲学者です。フランスの女性哲学者にはシモーヌ・ヴェイユという人もいますが、ふたりとも何か優しくも厳しい文章を書かれます。男性よりも厳しい感じです。しかしそこに信頼を感じてまうのは私だけでしょうか。

 

「わたくしが自分の存在を認めることができるのは、それが“参加”している場合でしかありません。一つの客体がわたくしに属するためには、それがわたくしによって打ち建てられたものである必要があります。つまり、私がその客体を、その全体性において打ち建てた場合にのみ、その物は全面的にわたくしのものなのです。完全にわたくしに属している唯一の現実というのは、とりもなおさず、わたくしの行為です。」(『人間について』p17<新潮文庫>)

 さあ面倒な文章です。つまり、自分という存在は“参加”しているときのみ存在しうる。なんの参加かといえば、何かを自分によって“創り出す”ことへの参加です。何かが自分のものとなるのは、その対象の全体(秩序)を自分自身で創り出した時のみ、それは自分のものとなる。そしてこの行為への参加をしている時のみ、自分というものが現実に存在することになる。裏を返せば、創造の行為だけが、自分にとって本当の意味での“現実”だと言えるということです。

 

 このことを踏まえると、次の言葉が理解しやすくなります。「わたくしのものであるのは、だから、まずわたくしのなすことであります」(『人間について』p19)。とういことは、自分で創り出したものでない限り、自分のものではないということになります。それについてボーヴォワールは、「社会的、有機的、経済的関係は、外面的な関係でしかなく、一つとして真の所有を打ち建てることができますまい」(『人間について』p16)と言っています。例えば、この土地は国のものだとか、彼女は彼のものだとか、お金で買ったものすら、真の所有にはなりえないと言うことです。

 ではいったい、今現在、自分のものになりえているものはなにか。「わたくしのものがなんであるかを知るためには、わたくしが実際になしていることがなんであるかを知る必要があります。」(『人間について』p23)つまりどのような創造行為に参加しているかということです。ただし創造と一見似ているが違うものがある。その似て非なるものの区別はしっかり付ける必要がある。「かりに彼(ゴッホ)が一枚のゴーギャンを描こうとするならば、彼はヴァン・ゴッホによるゴーギャンのイミテーションしか作らないことになります。」(『人間について』p22)

 

 つまり模倣は真の所有になりえない。作っているようで創造ではないということです。イミテーションの制作と創造は一見同じように見えて、まったく違うことなのです。そして創造行為でないかぎり、自分のものにはならない。他人が創造したものを自分のものにすることは出来ないのです。なぜならそこに、自分という存在が創造に“参加”していないからです。既存のものに従うだけでは、あるいは奪ったり貰ったりするだけでは、創造行為への参加とならない(がゆえに再現なく繰り返すことにもなる)。

 ボーヴォワールは実存主義哲学者のサルトルの妻だけに、人間の自由意志を考えのポイントに据えています。主体的な意思による創造的な参加以外のものは、自分のものにはならない。誰かに命令されて従って満足するだけの人は、現実に生きていはいない、とすら解釈できます。この視点は、精神病理学と重なるところすらある。本人は活動を繰り返しているつもりでも、実際は現実に存在していない存在、となっているのですから。大切なことは、“自分が”参加しているかどうか。自分の責任において。そしてそれがイミテーションの制作ではなく、創造行為であることが重要なのです。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.003 『ダブルバインド』 

:

 今回まで木村敏さんの『自己・あいだ・時間』から重要な概念を抜き出します。統合失調症の原因の一つと言われているダブルバインドの記述から。
「たとえば有名なベイトソンの『二重拘束(ダブルバインド)』状況においては子供が母親の口頭での命令に従うことは母親の内心の意志に反することだ、という形での関係が子供と母親との間に形成されている。その為に子どもは母親とのあいだを一義的に定義することができない。」(『自己・あいだ・時間』P318)

 つまり、親が「イエス」といいながら表情が「ノー」である時、子供は相反する二つの矛盾した情報にさらされる。口頭の命令に従うことが、親の本音に反するので判断を決定できない。このようにきれい事を言いつつ態度で操作する親と子どもは信頼関係を作りえない。そして子どもにとって親は他者の原型であるがゆえに、対人関係に大きな問題を抱えることになる。

 

 次は少し長いのですが、重要な所なので引用しておきます。統合失調症の女性につていの記述です。

「高校卒業後、彼女自身は東京の大学へ、両親は地元の大学へ進学を希望して、結局は両方の入試に合格。そこで両親は、本心では地元の大学を選んでくれることを強く望みながら、口先では≪どちらへ行っても自由だ≫と言う。患者はしばらく迷ったのちに、≪東京へ行ったら若死にする≫という予感をいだき、≪その運命を変えよう≫と考えて、元来の自分の意志とは逆に、親の希望する地元の大学を選ぶ。ところが入学後、≪自分が自分でなく、自分の意志がなくなった≫と感じはじめ、同時に、自分の行動をあやつる幻聴が始まり、自室にこもって呆然とした毎日を過ごすようになり、独語・突笑が目立ち、表情も全く仮面様となった。入院後、彼女は医師に会うたびに≪運命を間違えた、やはり東京へ行くべきだった、正しい運命に従わなかったから自分の意志がなくなった≫、≪私は母の前へ前へと行かなければならなかったのだった。それが進学のときにうしろになってしまった≫、≪それで母が私の体に入って来て、母の声が私に命令するようになった≫と訴える」(『自己・あいだ・時間』P198)

 

 親の操作的、二重拘束的な情報が、東京進学を阻止し、地元進学を正当化するため「若死にの回避」という物語が作り出される。人が操作的に扱われると現実的な視座を失う状況がよく見て取れます。健全な思考で解釈すれば、彼女は“象徴的に”若死にを通過して“生まれ変わり”、適切に親離れすべきだった。実際このような話しはいろいろな所で耳にします。親子関係に関わらず、優劣のある関係はそのような事態に陥りやすい。だからこそ、優位に立つ側は自己批判的に状況を見つめ、細心の注意を図るべきだと思います。

 「両親の二重拘束的な意思表示からの脱出としての東京への進学は、『若死に』という『運命の予感』によって放棄され、彼女は親の暗黙の意志をいわば先取りして、自発的に地元の大学に進学する。しかしその瞬間、彼女は『親に先を越された』ことになり、『運命をまちがえ』て自分の意志を失い、自分でなくなり、自分の中に自分を自由に操る母の声を聞く」(『自己・あいだ・時間』P199)

 

 二重拘束の環境で育った人は、二重拘束的なコミュニケーションしかできない。つまり、そういった親自体が、二重拘束の環境で育った可能性があるということです。これは代々受け継がれる負の連鎖となる。情報の隠ぺいは、相手に「割り切れない感情」を与える。そのような情報の発信源自体が分裂病的であり、周囲にも統合失調を作り出してしまう。よって出来るだけ早く正常化する必要があります。そのためには、立場的に優位にある側がダブルバインドの原理を知り、隠ぺいによる自他への影響を真に理解し、辛くとも正直な対話を心がける“勇気”を持つことだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.002 『自己の差異化』 

:

 前回は「メランコリー親和型」というキーワドでした。手に取った本が精神病理学の本だったので、いわゆる病態の概念が沢山出てきます。そんな本読んでなんの役に立つんだという人もいるでしょう。しかし現代人が持つ「漠然とした不安」や「納得のいかなさ」あるいは「どうしたらいいか分からない」といった問題と、この領域は深くかかわっています。そのあたりは形式的な考え方では歯が立たない。本質的な思考の深さこそが頼りとなります。

 さて、木村敏さんの本の中盤にこのような文章があります。「自己はその本質構造において自己自身との関係であり、自己自身との差異である。同一性ではなくて差異が自己の自己性の根拠となっている。しかもこの差異は、二つの相対的に異なったもののあいだの平面的な差異ではなくて、一方が他方を絶対的に差別化するとう不平等な上下関係をもった立体的な差異である」(『自己・あいだ・時間』P254)

 

 ちょっと面倒ですが、つまり、自己とは一つの固形物としての自己ではなく、「関係」や「差異」である。なんの関係や差異かというと、他者との関係でありそれは「違い」(差異)である。ただし、ただの平面的な比較ではなく、二つを比較する高次の監視者がいる立体構造である、ということです。関係は常に変化する。だから差異も変化し続ける。それを「観測し続ける立体装置」が自我である。

 現代社会は、テクノロジーの発達によって、微妙な変化(差異)を読み取る力が失われつつあります。パソコンやスマホの情報は自然のように変化しない。すべてドットであり画像です。それは時間がないことを意味しています。よって、関係や差異を認識する能力が退化する。つまり自己の在り方に問題が起こりやすいということです。統合失調症は先の「自我の差異化」の立体装置が壊れた状態だと言われています。自己が無変化で硬直化し、それを隠し守り抜こうとあらゆる“偽装”を続ける。

 

 しかし頑丈な砦(仮面)によって、本人が窒息してしまう。だからこの状態を改善しなければならない。そのためには「自己の差異化」のシステムを回復させる必要があります。差異化とはそもそも、成長を続ければ、以前の自分と今の自分は違うわけで、そこに差異がある。変化がある。固形自己の防衛に固執することを辞め、砦から出れば、すぐに変化が現れ、そこに差異が確認できる。自分の成長と変化、その差異を実感(確認)することが、最大の特効薬でしょう。これをひらたく言えば、自然の流れを受け入れるということなります。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.001 『メランコリー親和型』 

:

 さて第一回目ということで、適当に本棚から取り出したるは木村敏さんの『自己・あいだ・時間』<ちくま学芸文庫>であります。これは、ブックコーナーでも紹介した精神病理学の本です。能書きは省いて、いきなり気になる文章を取り上げていきます。
 まず目にとまった文章は、「『取り返しのつかない』事態をおそれる『現状維持への活動的執着』という鬱病者の特徴的な生き方」(P14)。これは鬱病になりやすい気質を一挙に表現したものです。本書ではこの気質を、精神医学者のテレンバッハの概念をかりて「メランコリー親和型」と命名しています。テレンバッハが言うには、このメランコリー(鬱)が“罪責感”を作り出すと考えられているが、実は逆で、罪責感がメランコリーを鬱病者の中に作り出しているとしています。この「罪責感」は重要なキーワードだと私は思います。キルケゴールの「不安の概念」という本には「原罪」がキーワードとして度々出てきます。そのことを考えると、無意識にある「罪の意識」が鬱や不安の原因を作り出していると言ってよいのではないか。


 そのような罪責鬱病患者は病前は“模範的社会人”であることが多いようです。そこで最初に出てきた『現状維持への活動的執着』とつながってくる。「彼らが義務感をもち勤勉であるのは、実は彼らが無責任でありえず、怠惰でありえないからなのであり、彼らの対人的同調性の根底にあるのは、他人との摩擦や葛藤に耐えられない消極的な無力さだということができる」。「他人に対して責めを負うことを極力避けようとする世俗的な意味での『良心』の過剰ということになる。世俗的な意味での『良心』とはとりもなおさず『やましさ』を恐れる防衛的な構えにほかならない」(P26)。
 ちょっと長く引用しましたが、このあたりはなるほどなと思ってしまいます。“過剰な”マジメさは、「正しさ」からではなく「やましさ」からくる防衛的な行為だという視点。いわば逃避行動と言ってもよいかもしれません。「やましさを恐れ、他人からの非難を免れようとする人は、必然的に保守的で消極的な行動様式をとり、いっさいの冒険を回避することになる」(P26)


 「メランコリー親和型」という鬱病気質と『現状維持への活動的執着』という「やましさ」を恐れる防衛行動。この論文で説明されている鬱病のメカニズムはここがポイントだと思います。そして「罪責感」は通常考えてどこで植えつけられるのか。すると見えてくるものがいろいろとあります。マジメがやばいからと言って、無責任でいい加減をやっていると、今度は逆の精神病が待っている(結局は逃避行動なので)。つまりは自分でバランスをとる「精神的な強さ」がないことが病理として現れる。そのあたりも本書の論文で説明されていますが、第一回目はこのあたりで終わりにしようかと。

 

▲ダイアリーページトップへ