Infomation and DAIRY

ひび描いた絵をアップしていきます。思考の場、発見の場でもあります。

 


Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.723 『コラージュ』 

: collage on paper

 これはコラージュの授業で作った二つの作品です。コラージュはどうやって作るか分からないという人がいます。多分それは、答えがないからでしょう。どのように切って、どのように貼ってもいい。すべては自分の美意識にかかています。だからマニュアル(答え)に沿ってやることに慣れている人は、その「自由さ」にとまどってしまう。

 自由とは全てが自分の裁量にかかっているということです。よって自由が苦手は人が案外多い。フランスの哲学者サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と言いました。これは自由に伴う責任を示唆しています。自由だけど、自分の責任からは自由でない。この両義性を背負うことで、人は良く生きることができる。

 コラージュも自由を覚悟すればあとは簡単です。自分の美意識と直感に従えばいい。そうすれば内側から圧倒的なパワーが噴出してくる。人はみなそのような力を持っているのです。マニュアル依存から、すべてを自分で判断する「自由な表現」へ。コラージュという技法は、人々の内なるパワーを引き出す魔術的な技法なのです。


2017 6/22

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.722 『浴槽のある部屋』 

: acrylic on canvas

 この絵は2年近く前に描いたものです。いつもより重厚なテイストですが、20年程前はこのような絵を大型のキャンバスに描いていました。しかし、20代中頃から30代にかけて、絵の制作のために頻繁にパリへ行くようになり、それに合わせた実践的なスタイルに変わりました。道具も最軽量で、サイズもWEBの時代に合った大きさ。その場の直感を活かした自由なスタイルです。このスタイルは25年をかけて洗練させたものです。

 現在の描き方は、なにより描き手がポジティブでいられる。もちろん精神も安定する。そして気負いなく続けられる。つまり自分の感性や直感を日々使い続けることができる。当然、自分が「何が好きか」も自然に分かってくる。時代はテクノロジーの発達によって、より自由度が増しました。そんな世界を軽やかに駆け抜けるには、ポジティブでキレのあるスタイルが最もふさわしい。過去を引きずることなく、絵と自分を洗練させて行く。それが時代に合った、未来の描き方だと思います。



2017 6/21

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.721 『感じたものを描く』 

: watercolor on paper
感じたものを描く。ただ見えるものを正確に描くとすれば、だれでも同じ絵になります。それが最も上手いのは機械です。私たちはカメラやコピー機にはかないません。しかし、そもそも機械になる必要はないのです。人間にしか感受できないものを、その人にしか表現できない方法で描いていく。そこに絵や芸術の本質がある。それは仮象ではなくイデアを描くようなものです。定規で引けば正確かもしません。しかしそんなことは関係ないのです。人が生きて、絵を描き、何かを表す。直感や感性が豊かに発動することが、生きるということなのだと思います。



2017 6/20

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.720 『shadows』 

: watercolor on paper



2017 6/16

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.719 『直感と環境』 

: acrylic on paper

 「なにが好きか分からない」という話をよく耳にします。これは表に出て生活している自分が、本当の自分の性質とつながっていないことを表しています。フロイト的に言えば、外的自己と内的自己の間に繋がりがなくなっているということです。よっていくら外的自己が頭で考えても、なかなか内的自己にあるものが吸い上がってこない。

 この外的自己と内的自己の間は、直感でしかつながらない。つまり頭ではなく心を使うことでしか、内的自己にあるものを表に出すことができないということです。いくら考えても、いくら方法をたくさん知っても、直感が動かなければ二つは繋がってこないのです。

 よって直感を鍛えることが「何が好きか分からない」という問題を解決する最善の方法です。直感を鍛えるには、直感が必要な環境に、ある一定の間身を置く必要があります。人間はそのよな環境に強いられないと、直感を発達させることが出来ないのです。しかし現代の社会はそのような、「直感が必要な環境」が驚くほど少ない。

 現代の社会は、科学的な思考パターンが支配した世界です。原因と結果をつなげて「ああすればこうなる」と考える。これは決定論であり、確率の世界です。当然ですが、そのような世界では、すべてを意識(頭)で考える。打算的になる。そこに直感が働く余地はありません。会社で根拠をとわれて「直感です」というと笑われるでしょう。

 しかし、だからこそ現代人は「何が好きか分からない」となる。これはいくら富を得ようが、社会的に上手く行こうが、その人個人の納得が作られないという意味では、決定的に不幸です。しかし直感が笑われる環境で、直感が発達するはずがありません。当然、内的自己と外的自己の乖離が放置されたままとなる。

 「何が好きか分からない」を解決するには、「直感を必要とする環境」が必要です。方法論ではなく環境です。哲学者プラトンは、環境によって善人が悪人にもなるし、悪人が善人にもなると言っています。人間は、環境が要求すものを身に着ける。「何が好きか分からない」時は、直感を使う環境に身を置くことが必要なのです。


2017 6/15

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.718 『印象のちがい』 

: watercolor on paper

水彩教室で、下描きの違いを説明しながら描いたものです。上が鉛筆で下描きして水彩を入れたもの。下がペンで下描きして水彩を入れたものです。印象は随分ちがいます。鉛筆のほうが柔らかく仕上がるし、ペンはよりかっちりした仕上がりになる。教室では、その日の気分や好みに合わせて、選んで描いてもらっています。もちろん下描きなしでも描いてもらっているので、最低三つのスタイルを身に着けることになる。水彩はこの三つを覚えると完璧でしょう。


2017 6/14

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.717 『減速』 

: watercolor on paper

ややスピードを緩めてみる。力を抜いてリラックス。そして再度、それぞれに意識を向けてみる。すると一つ一つが豊かな響きをもって現れる。急いた気持ちを落ち着かせ、小さな所に大きな変化を発見する。そこには十分すぎるほどの興味深い世界が広がっているのです。


2017 6/12

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.716 『メールの不具合』 

:

絵の教室用のメールアドレスにメールを送ったけど返信がない(こちらに届いていない)、という話しをたまに聞いていました。たまにあるイレギュラーは仕方がないと思っていたのですが、最近どうも酷いようで、試してみたら10回のうち5回が受信されなかったので、さすがに驚きました。もしメールを送っても返信がない場合は、受信自体がこちらでされていないということです。ごめんなさい。。

6/13 メールの不具合、解決いたしました!


2017 6/12

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.715 『次の時代』 

: acrylic on paper

 “個性”とは“違い”であり、“違い”とは、お互いが別の考え方や趣味嗜好(文化)を持っているということです。だからもし自分と同じでなければ気が済まない、という人がいるとすれば、その人は、他人の個性を許さないということです。これはいわゆる独裁というものです。

 個性を許さないことが、結局は独裁自身を滅ぼしてしまう。これは論理的な帰結です。なぜなら違い(比較)のない世界に、人間は存在できないからです。この矛盾を回避するために、独裁者はいつも敵(違い)を必要とします。常に敵を探して争いを起こしている。

 お互いの個性を認め合う。これは生きる基本です。そしてコミュニケーションの目的です。その方法は無限にある。独裁と争いの世界に対する、認め合いと尊重の世界。個性や違いがそのまま対話の基盤となる世界。それが次の時代の地平なのだと思います。


2017 6/11

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.714 『自分の風景』 

: watercolor on paper

不可能なことを上手に諦めることで、やるべきことが見えてくる。それは穏やかな道。囚われることなく、追い立てられることなく、自分の歩幅で歩いてゆける。それまで見えなかった風景がゆっくりと見えてくる。そこに等身大の世界があるのだと思います。


2017 6/09

 

No.713 『個性』 

:

 個性とは平均からはみ出した部分に現れます。だから標準や常識を怖れていては個性は出てこない。絵だって標準的な描き方を訓練すればするほど、標準の型が強固となり、個性が出て来なくなります。そもそも平均や標準というものは、実体のない曖昧な概念です。全体(分母)の変動によりいかようにも変わってしまう。そんな動くものを基準にすれば、不安定にもなる。標準(常識)とは実のところ、もっとも不安的な基準なのです。

 それに比べて個性というものは、その人独自のものであり、確固とした基準です。その人そのものは動かしようがない。そういった個性を基準とすることが、もっとも安定することは言うまでもありません。平均幻想へのこだわりから離れることで、個性は自然とにじみ出てくる。それは人々へと伝わり、それに見合った返答が返ってくる。そこに安定した環境も生まれて来てくる。

 教科書や辞書にも間違いがある。法律も改正される。常識も変わる。生きている間変わらないのは自分の個性だけです。成長と共に変化しながらも、そこにある一貫性。それが個性。私たちは変わるものを変わらないと考え、変わらないものを変わると考えて過ごしている。しかし、社会の不安定さに対する「個性の安定」こそが真実です。この真実にしっかりと錨を下す必要があるのだと思います。


2017 6/07

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.712 『10年前』 

:

これは10年前に描いた水彩画です。保存していた画像を発見して、久々にお披露目しています。この絵は個展にも使ったもので、原画は洋食のシェフをやっている友人のもとにあります。絵を描き続けていると、スタイルは有機的に変化します。この時期のスタイルも好きだったなと、改めて思うのでした。


2017 6/06

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.711 『本質』 

: watercolor on paper

本質は数では表すことができない。だから数字だけで出来た世界は、本質が抜け落ちている。ただ社会に従っているだけでは、心が満たされないのはそのためです。本質の把握は、人間がもつ全体的な直感によってなされます。これは感性の領域。感性は、知識をいくら溜め込んでも発達しない。どれほど財を積み上げても見えてこない。あるがままの自分が、枝葉を伸ばさなければならない。大勢が一つの決まりに従うのではなく、個々人が、自分自身に従うことで本質が見えてくる。それが全体となって「本質的な世界」が実現する。それが未来の「新しい社会」なのだと思います。


2017 6/04

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.709 『自分を信じる』 

: watercolor on paper

 自分を信じる。ことばで言うのは簡単ですが、実際はなかなか確証がもてないものです。自分を信じるとは、自信を持つことであり、それが何かに対しての自信ではなく、根本的な「自分の存在」に対して自信をもつといことです。この状態をつくるのは1人では難しい。

 哲学の世界では、「自己=他者」という考え方があります。自分を理解している分だけ、他者への理解も可能となる。さらに他者から自分がどれだけ理解されているかが、自分のあり方を規定する。例えば成人してもなお、親から子供扱いされていれば、その人は大人になれない。

 自己を信じるためには、他者からの理解が必要です。もちろん他者にとってはこちらの理解が重要です。理解はうわべだけでは意味がありません。表面ではなく、「自分の本質」を理解してくれる人が必要です。これは言葉の世界を超えた理解。まずは「他者の本質」(人間性)を理解ていくとこで、自分も理解されていく。信じる自分もそこに生まれるのだと思います。


2017 6/03

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.708 『Le Marais』 

: acrylic on paper

仕事で雑誌やポスターなどの絵を描いても、原画を渡すことはありません。よって描いた原画は手元に残ります。これまで個展で絵を売る、ということにも拘っていなかったので、基本的に絵は手元にあります。ただ、いろんな機会に絵を贈ることはあります。よって親しい友人たちは、私の絵を飾ってくれている。あるいは、東京の吉祥寺にあるパティスリーに、私の絵を飾ってくれている所もあります。ちなみにこの絵の原画は、友人が結婚するときに贈りました。20年前に贈った絵を、今だに飾ってくれている人もいるので、絵描きとしてこれ以上のことはないと思っています。


2017 6/02

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.707 『Door of Dimension 』 

: acrylic on paper

二次元は、三次元からすると、一次元折りたたまれている。三次元はもちろん四次元からすると、一次元折りたたまれている。次元の扉を開けば次元は上がる。それらはすべて「認識」によってもたらされるのです。


2017 6/01

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.707 『哲学の機会』 

: watercolor on paper

 高額な「良い筆」を買って綺麗な絵を描く。そして褒められる。しかしそれは自分の力ではなく、「良い筆」が描いたものかもしれない。そう思い、そうでもない筆で描いてみる。すると、あまり綺麗にできなかった。だれも褒めてくれなかった。そこで「良い筆」に戻る人と、ここに一つの問を見出す人に分かれます。前者は、道具に依存することで問題を回避する。もちろん解決は先送りです。後者は「道具とはなにか」、あるいは「自分で描くとはなにか」という哲学的な問と対峙します。当然後者の方が、あらゆる意味で「描き手」としての真実に迫る。深みや豊かさが増す。小手先ではない、作品の根本的な質も上がっていく。

 もし、高額な筆を自動的に与えられ、綺麗に描く方法も取説のようにインストールされたらどうか。その人は哲学的な問いに接するこはありません。悩みも発見もない。もちろん見た目綺麗な絵ができるでしょう。しかしそれは表面的な綺麗さだけで、なにか本質にかける軽いものになる。当然、その作品が自分や人を豊かにするには至らない。親切と称してすべてを補助することが、その人の発見を奪ってしまう。実はそれこそ不親切なことではないでしょうか。人間の成長にとって適切なもの。それは安易な決定論ではなく、本質を考え抜くことによって獲得されていく。その機会こそが大切なのだと思います。


2017 6/01

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.706 『momochihama 02』 

: pencil on paper

外に立ってスケッチをする。だいたい10分から15分くらいが限度でしょう。限られた時間のなかで、見えたものをさっと描く。全部描く必要もなく、自分が世界と接したところだけでいい。描くこと自体に意味があるので、絵が売れなければならない、などと考える必要もありません。絵の基本は純粋行為。自分が好きでやることなのです。


2017 5/31

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.705 『momochihama』 

: pencil on paper

たまには外で絵を描いて見る。木陰のあるベンチに座って、描きたいところを何気に描く。自己と風景との対話が、その時そこにいた証しとなる。つまり自分の経験となる。そこが携帯で撮る写真との大きな違い。気持ちを使っただけ自分のものになるのだと思います。


2017 5/30

 

No.704 『自分の舟をつくる』 

:

 最近よく聞く話があります。一生懸命に仕事をしてきたのだけれど、なにか自分を満たさない。年齢とともに、そのような気持ちに追い立てられるようになる。そして、なにかしなければならないと、いろんな習い事を始める。しかし自分を満たすには至らず、最後には仕事もできなくなってしまう。これは現代の30代から40代にかけて起こっている中年のクライシスです。
 この問題の原因はいくつかあります。まず最初にボタンの掛け違いがある。つまり「自分が好きなこと」を心の底に抑えて、親や世間体に従って職業や生き方を決めてきた。よって頑張れば頑張るほど、本来の自分(納得)からは遠ざかる。そしてあまりに遠くまで来たことを、何かのキッカケ(通常は年齢)で実感し、茫然としてしまう。この問題は小手先で解決するようなものではなりません。
 これは、自分の船ではなく、人の船に乗って頑張ってきたということです。頑張ってはいるけれども、行きたい方向ではなかった。やったことも、なにか自分のものになっていかない。そのことにはたと気付いて、焦る。そして急に脱出の計画をたて、早急すぎる実行に出てしまう。これは数年かけて、脱出の舟を作って出ることとは次元の違うことです。


 今までいた船にはいられない。しかし急いて海に飛び込んでも上手くいかない。そこでまた別の船に飛び移る人もいる。しかし、それはまた同じことになり、次は年齢的にも取り換えしがつかなくなる。とにかく、他人の船で遠くまで来てしまったという問題。そういった状況で苦しんでいる人がいる限り、私たちはその解決策を模索する必要があります。

 まず必要なものは「自分の舟」です。それは「純度100%の自分」という素材でできた舟のことを指します。部分的に他人のものが入ったりしてはいけない。全て自分の発想、自分の素材、自分の責任で作ったものです。そういった「自分の舟」は、どんなに小さくても安定して航海ができる。なぜなら、舟と舵取りの間にズレがないからです。この「自分の舟」をどのようにして作ればよいか。
 「自分の舟」を作るには、自分の意思が必要です。他人の船にただ従うだけの生活なら、自分の意思は必要ない。だから自分の意思が必要な(だれも口出ししない)環境に、ある一定のあいだ身を置く必要がありあす。そうして自分の意思を復活させる。そのような環境は、今いる船にはない。しかし習い事もほとんどが、規格に従う場所です。逆に、ただ自由にという放任環境も、「他者の不在」であるがゆえに、自分の意思を阻害する環境です。
 これは自己の問題であり、主体性の問題です。自己は他者によって支えられた概念です。だから何でもありの放任環境では復活しない。逆に、他者に影響され、決まりを強いてくる環境も主体性を阻害する。「純度100%の自分」が必要となる環境とは、他者との関係があれども、お互いが拘束し合わない「距離」のある状態。そしてその状態が「常識」としてある環境です。こういった環境は、状況を熟知した人がエネルギーを注ぎ、維持管理しなければ発生しえません。


 適切な距離をもった、お互いを拘束し合わない環境。この環境があれば、人は自然に「純度100%の自分」を出せる。精神科医やカウンセラーはそのような環境を個人間で作り出すことをしています。しかし精神科医やカウンセラーが、逆に患者と同じ病気を発症することも多く、言語に依存した方法論に、抜本的な修正を加える時期に来ていると思います。
 意図したわけではありませんが、私が主宰している教室の環境は「純度100%自分をつくる環境」という意味では、完全に重なっています。教室の環境は、「初心者が一年で素人とは呼べないレベルに達する」ことを目標に構造を整理してきました。結局は描く人の主体性や個性を守り、枝葉を伸ばしてもらう、という環境を作ることになった。もちろんその環境を維持するのはなかなか大変です。
 そんな教室を卒業して、これまでの仕事もやめて、本当にやりたかったことを始める。そんな人が沢山います。そのプロセスを見て感動することが何度もありました。これが本当のクリエイティブだなと思うのです。「純度100%の自分」を取り戻す。そして「自分の舟」をつくる。それができる間、適切な環境で待つ。船出はそのあとに。そうすれば上手くいのだ思います。


2017 5/30

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.703 『苦手なもの』 

: watercolor on paper

 先日、教室のみんなと話していて「苦手な食べもの」の話しになりました。私は人の「苦手な食べもの」を聞くと、無条件に面白いと思ってしまいます。なぜならそこに、その人の個性を感じるからです。誰だって「苦手な食べもの」はあります。しかし人によってその食べ物は違っている。そこが面白い。もしみんな「納豆が嫌い」で統一されていたら面白くもなんともありません。

 「苦手な食べもの」とは、不得意だということです。つまり不得意であることに個性を感じる。一般的には不得意なものは、出来るだけ無くしていこうとします。しかし、そんなことすると、私は面白くないと思うのです。そもそも得意、不得意という概念は、表裏一体の関係にあります。だからこそ個性を感じる。また不得意を消すと、得意も一緒に消えてしまうのです。

 例えば、私は言語を扱うことが得意ではありません。外国語にしても、市場で交換されている共通言語(企業言葉)にしても苦手です。だから絵に関わる仕事をしています。言い換えれば、苦手があるから得意が発達した。つまり、苦手なものを諦めて受け入れると、自然に長所が伸びていく。「不可能なことに固執しない」ということです。

 その人の苦手なこと、不得意なことを聞くと個性を感じる。そこが面白いと思う。そしてそれは、必ず得意なものを暗示している。つまり苦手なものの数だけ、得意なもがあると言うことです。それが何か分からないのだとすれば、まだ潜在領域にあるということ。自分を押し込めない環境へ行けば、その力は自然に出てくるのだと思います。


2017 5/29

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.702 『焦らない』 

: watercolor on paper

 焦っても良いことはあまりありません。焦るのは、何かが不足していると感じているから。何かが足りない。そのことをダメだと判断しているからです。しかしよくよく考えて見ると、なぜそれがダメなのかという理由が曖昧です。逆に、足りなくても良いと考えても大丈夫なくらいです。

 そもそも焦るという心理状態自体が、求めている事柄が不適当であることを表しています。自分のためではなく、外部の価値にとらわれてしまっている。本当は、あるがままの自分を受け入れることが、人生をよく生きる基本です。ないものにこだわるよりも、持っているものに意識を向けること。

 何かと比較して自分を価値づけしても、あまり意味がありません。そんなことをしていては、自然な自分になれない。まずは自分をよく見て、それを丸のまま受け入れることが大切です。そうすれば、何も不足などしていないことに気付くはずです。もちろん焦ることもなくなるのだと思います。


2017 5/27

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.701 『えんぴつラフ』 

: pencli on paper

 


2017 5/26

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.700 『芸術的な環境』 

: watercolor on paper

 絵が上手くなる最も良い方法は、自分の才能を使って描くということです。“自分の”才能とは、自分の中にしかないものであり、それは他人が持っていないものです。逆に言うと、誰もが自分の形でもっているものです。

 例えば技術という言葉があります。絵は技術で上手くなると思われている。しかし技術とは、誰にでも当てはまる概念であり、訓練さえすれば誰もが持てるものです。だから、自分の中にしかない自分の才能と、技術はまったく別の事柄です。

 自分の才能を発揮させるためには、個性が優先される必要があります。誰にでも当てはまる技術よりも、個別の能力が尊重されることが大切です。これは社会性から自立した、芸術的な立ち位置でしか成立しません。ただ従うだけではなく、自己を立ち上げて、真の「平衡状態」を作り出すということです。

 個性の尊重が才能の発揮の基盤です。自分自身が、個性を尊重することで才能は発揮される。これは自己内に、芸術的な環境をつくりだすということです。その内的環境を維持し、豊かにしていくことが、芸術活動そのものでもあります。当然、心も安定していく。

 絵が上手くなる方法は、自分の才能で描くということ。そのためには自分自身が、自分の個性を尊重することです。日々描きながらその内的環境を作り出していく。自分の個性が尊重できれば、周囲の個性も尊重できる。当然、環境は外へと広がっていくのだと思います。


2017 5/26

 

No.699 『競争から協力関係へ』 

:

 誰かが勝つと誰かが負ける。誰かが得をすると誰かが損をする。そんな競争の原理に疑問を感じます。現在の社会は、競争の原理で動いている。奪い合うことで、理不尽さや不公平も生まれる。そんな状態を放置したまま進むことに、根本的な疑問を感じます。もちろん今すぐどうこうすることは出来ない。しかし、新しい社会のあり方を考えることには意味があります。

 競争ではなく協力関係を作れないか。相互依存による引っ張り合いをやめて、自立した「非拘束関係」を成立させられないか。そのためには、「相互理解」という“信頼関係”が不可欠だろうと思います。言語によるコミュニケーションの座礁を、高次元で回復していく。お互いの「相互理解」という地平が、資本主義を超える一つのポイントだろうと思います。


2017 5/24

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.698 『相互理解』 

: collage on paper

 相手のことを理解する。そのことで、相手からも理解される。この「相互理解」が最も大切だと思います。「相互理解」によって物事も円滑に進み、個々人の心にも納得が生まれる。人は自分が理解されないと、なかなか先へ進めないものです。

 しかし現代は、みな“自分が理解されている”という安心や落ち着きを、なかなか持てていない。日常、言葉によって意志を伝えるも、結果としては自分が伝わっていない。だから言葉が膨大に飛び交っていても、納得がうまれない。つまり言葉が、自分を表したり、相手から理解されたりするツールとして機能しなくなっている、ということです。

 そこで芸術による「相互理解」が必要になってくる。絵もその一つです。絵に自分の個性が表れていれば、見る人に伝わる。相手の絵にも個性が見える。これは視覚的な「相互理解」です。言語では理解し合えない個性が「相互理解」に達する。これは明らかにコミュニケーションの成立です。

 出来るだけ、個性を表現できる絵を描くほうがいい。石膏を何時間も描いたり、模写をする時間があれば、自分の感性を使った表現を描くほうがいい。なぜなら、その事によって「相互理解」が得られるからです。個々人の納得も、そこから生まれるのだと思います。

2017 5/23

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.697 『絵の才能について』 

: water color on paper

絵を描く能力は誰にでもあります。ただ質的な違いがある。そういった個々の能力を発見するのが、絵の講師の、重要な仕事の一つです。絵の才能を発見するには、それなりの感覚が必要となります。才能は上手さとは別の現れ方をするので、「上手い・下手」で判断すると才能を見落としてしまう。絵の才能は直感に宿るがゆえに、感受する側もまた直感が必要となります。結局は、相手と同質の才能が、見る側にも必要になってくるのだと思います。

2017 5/22

 

No.696 『ブックについて』 

:

自分のホームページに、感銘を受けた本を紹介するページを作りました。今少しずつアップしているのですが、困ったことに内容を細かく覚えていない本がかなりあるのです。よって、もう一度読み直すことになっています。これはなかなか大変なことを始めてしまったと思いました。しかし、読み直すと、今だからこそ分かる部分もあります。良い本は何度読んでも発見があるのだなと実感しています。ただ、新しい本を読む時間がなくなるので、どうしようかと考えているところです。

2017 5/20

 

No.695 『正しい行動』 

:

正しいことに遅いも速いもない。気付いた時に行動すればいい。そうすれば全てが正常化する。正しいことと時間は関係がないのです。そして「自分にとって正しいこと」も同じく、遅いも速いもありません。気付いたその時から正しく行動すればいい。そうすれば全てが解決へと向かう。そういうものなのだと思います。

2017 5/19

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.694 『』 

: acrylic on paper

 

2017 5/18

 

No.693 『新しいコミュニケーション』 

: acrylic on paper

 最近、書籍のクレジットに表記された私の名前に誤記がありました。その本のなかに14点ほど絵を描いていたので、その表記だけをみると別人が描いた事になります。この件に関しては、出版社の編集長からお詫びと訂正の対応を取っていただいているので、問題としては正しい状態へと向かっています。

 今回のことで一つ、絵の面白さを再確認しました。それは言語表記は別名なのですが、教室の人たちや知人などは、絵を見た瞬間、私の絵だと分かるようです。これが絵の情報だと思います。今回描いた絵はモノクロでしかも鉛筆を使ったので、個性は出にくい。しかし見た人は一瞬で判別してしまうのです。

 一般には言語によるコミュニケーションが、自分の意志を伝える最も有効な手段だと考えられています。よって日常は言語に依存している。しかし、本当に自分のことが相手に伝わってるかといえば、疑問が残ります。なぜなら、言葉はいまや形骸化しているからです。

 たとえば「私は悲しい」という。しかし、受け手は「一般的な悲しい」を想像する。「悲しい」という意味が固定化して世間にある。これがもし、ゴッホの絵に悲しさがあれば、“ゴッホの悲しさ”が伝わってくる。絵にあるのは「固有の情報」です。このあたりに飽和した社会を突破する、新しいコミュニケーションの形があるのではないかと考えています。

2017 5/16

 

No.692 『想像力』 

:

「理想と現実」という言葉があります。現実はそう甘くないという意味で使われる言葉です。しかし、現実に過剰に従い、理想を捨ててしまった人の常套句にもなっています。もちろん現実を無視した理想主義者は、ある種の逃避主義者です。理想と現実を区別するのはいい。しかし二つを統合し、現実に理想を作り出すことが大事です。統合にはエネルギーが必要。そのエネルギーは、理想を描く「想像力」が作り出します。もちろんそれは芸術によって鍛えられるのです。

2017 5/15

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.691 『生きている』 

: watercolor on paper

 絵には抽象という状態があります。まだ具体的な形や意味が現れていない状態です。それは絵の土台であり、本質を支えているのもです。そこがしっかりしていないと、絵の存在感が薄くなる。

 人間も同じで、先ずは存在自体が大切だと思います。なにが出来るとか出来ないとかではなく、生きているということ。まずはそれで良いではないかということです。そこを大切にしないまま、結果にこだわっても、なにか存在が薄くなってしまう。

 他人を認識するにも、その人の存在を大事になければ、その人を見たことにはならない。肩書きや結果で判断することは、その人の存在を見ていないことになります。まずは、人が生きて存在していることに、目を向ける必要があるのだと思います。

2017 5/13

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.690 『出会い』 

: watercolor on paper

 

2017 5/12

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.689 『絵の自由』 

: acrylic on paper

どこまで具体的に描くか。それは描く人の自由です。好きな感じでとどめる。人生の加減と同じで、そこは自分の好みに合わせて決める。絵は描く人に自由が与えられているから面白い。人生だって同じことですよね。

2017 5/11

 

No.688 『子供の絵』 

:

 子供がどのような絵を描くか。クレヨンで否定形なものを描く。あるいはチューリップと分かるものを描く。写実的になる。あるいは漫画の絵を覚える。その子の個性や成長に伴って、いろんなプロセスが考えられます。そう考えると、大人よりも子供の絵のほうが、一般化して語ることが難しい。

 先日、ある話を知りました。子供が絵画教室で絵を習い、コンクールで賞を取ったという話です。しかし、手元に帰ってきた絵は、先生が絵の上から加筆したものだったということで、親子ともにショックを受けたという内容でした。これは絶対にあってはならないことです。

 子供の表現は、大人からみると稚拙に見えるかもしれません。しかしそれは、大人がただ資本主義的な価値に支配され、純粋な表現を知覚できなくなっているだけです。あらゆる産業のために、山や川、サンゴ礁などを犠牲にするわけですから。今回の絵の先生は、「生徒の賞」という自分の名声のために、子供の心を犠牲にした。

 生徒の絵に加筆する行為は人権の侵害です。その先生はかなり有名な方らしいのですが、彼はその手法で有名になったとすら疑われます。残念ながら形骸化した資本主義の世界では、そういった手法で君臨している人をよく見かけます。脱線しましたが、話しは、子供の絵の成長の話です。

 以前、私の絵の教室で、小学生が漫画の絵を描きはじめました。お母さんは、せっかく絵画教室に行っているのだから、漫画はダメという感じでした。しかし、その時描きたい「表現」は、必ずその子にとっての「意味」があります。よって、そのまま漫画を描いてもらいました。もちろんお母さんは、それをよく思わない。そういったことが、子供の「絵のコンクール」という発想へとつながる可能性はあります。

 絵の先生の加筆、親の価値観、いろいろとあります。加筆した先生は論外ですが、親の思いは理解できます。しかし芸術的な感性を育むには、やはり純粋な領域を守る必要があります。自己表現と、外部の価値が混在(混乱)すると、後々良くないのです。芸術に接するときは、社会的な価値から離れる必要がある。ふたつの区別があって、初めて統合もなされるのだと思います。

2017 5/10

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.687 『絵画の歴史』 

: watercolor on paper

人間は3万年前から絵を描き続けています。抽象的な図形だとさらに古い時代のものが発見されています。もちろん文字が世界に出現する遥か昔の話しです。これは、絵が人間にとって必要不可欠の要素であることを示しています。そのような当時の絵は、有名なラスコーの洞窟画などに見ることができる。見事な輪郭線で描かれた動物の数々。今見ても全く古びていないその表現は、まさに普遍性そのものです。このような絵が絵画の原型であり本質です。ここには当然、言語によって体系化された美術のセオリーは一切ない。すべては言語以前の感覚により描かれています。そういった絵の本質的な力を、言葉による学習で身に着けることは不可能です。やはり描くこと自体が目的であるという「純粋行為」に達するしかない。それには言語的な発想を超える必要があるのだと思います。

2017 5/10

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.686 『自由と責任』 

: watercolor on paper

自分の人生の結果はすべて自分の責任である。他人のせいになどできない。たとえ、誰かの命令で動いていたとしても、命令を受け入れる決断は自分で行っている。ゆえにすべては自分の責任である。この姿勢は一見厳しいようですが、この立ち位置でしか、自分の自由はありえないのです。よって、まったく自分の責任ではないように思えることでも、やはり少し過去を辿っていけば、自分の選択が結果を作っている。もし自分に自由があると信じるのであれば、やはり人生の結果は自分の責任なのだと思います。

2017 5/09

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.685 『アメクラ!』 

: acrylic on paper

能地祐子さんの『アメクラ!』・アメリカンクラシックのススメで、イラストを担当させていただきました。アメリカのクラシックを紹介する画期的な本です。モノクロで作曲家の肖像画やニューヨークの地図、コラムの挿絵などを描いています。5月5日出版です! 

2017 5/08

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.684 『思索』 

: acrylic on paper

思索とは、物事を論理立てて考えるということです。つまり、自分で考え、思考のプロセスを辿っていく。もちろん後ろを振り向けば、自分が辿ってきた文脈が残っている。なんであれ、自分で考えを進めるということです。現代のようにウェブの検索で答えを知ることに慣れてしまうと、思索をする機会がなくなります。しかしそれはかなり問題です。自分で考えることなく、自分の人生が理解されることは決してないからです。さらに自分自身のことを理解することすら出来なくなる。それには思索が必要不可欠です。逆に言えば、自ら思索を続ければ、行くべき筋道は自然に見えて来るということなのです。

2017 5/08

 

No.683 『事務局のこと』 

: watercolor on paper

以前、TISというイラストレーターが集まって出来た団体に出入りしていました。中の仕事を手伝ってくれと言われ、神宮にある事務局へ通っていたのです。当時、内部はいろいろと問題もあって、事務局の人たちと話し合ったり、解決策を提案することもありました。そこは非営利団体(しかし会員に間接的な利益が生まれる)なので、放っておくと、自己言及的な構造(矛盾)に陥りやすくなります。それを根本的に解決するとすれば、存在意義を問い直す必要が出て来る。どのような組織であれ、必ずそういった時期が来ます。別の言い方をすると、システムを永遠に固定させることは出来ないということです。ちなみに東京を離れて長いのですが、今でも事務局のMさんが展示の案内やハガキを送ってくれます。それを見るたびに、そろそろ事務局へ会いに行きたいなと思うのです。

2017 5/06

 

No.682 『問題への対応』 

: pen on paper

人柄といったものは、平時よりも問題が発生したときなどに現れます。イレギュラーに対してどう対応するのか。そこに、その人の人生観が凝縮して表れるのだと思います。

2017 5/05

 

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