Infomation and DAIRY

ひび描いた絵をアップしていきます。思考の場、発見の場でもあります。

 


Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.766 『文化を守ること』 

:

 文化や芸術とは、そもそも人間の行いが形骸化するがゆえの「破堤回避の作法」だろうと考えられます。人間が長い間に身に着けた知恵というものです。人は放っておくと、集団や派閥をつくり爭い出す。また個人でも習慣や合理的な行動が固定化することで、逆に問題の原因を作り出すことになる。

 人間の行いは、「考え」や「加減」のないまま放っておくと、混乱へ行き着く。エントロピーが高くなる。よってそれを回避するのが文化や芸術の役割だと言えます。もし文化や芸術が硬化し、決まり事によって無変化となれば、それは文化や芸術ではなくなってしまう。

 人は一度習慣化したものは変えたがらない。さらに習慣の外側を嫌う。しかし常に新しい空気を入れる内部循環の苦労を怠れば、必ず破堤に向かう。自己破堤に向かう習慣は、因習といってもいいものです。因習は見えない歴史や空気が後押し、その外側を嫌う感情でコーティングされる。

 因習による感情の固定化。これこそ精神病の原因の一つです。それを回復させることが文化や芸術の役割でもある。当然、因習的感情は抵抗する。そこに文化芸術の闘いがある。因習という「ラクな方へ流れた結果」の牙城は固い。倫理を無視し、すべてを金で判断する現状をどう見るか。

 文化や芸術を守るにはお金も必要でしょう。しかしミイラ取りがミイラになってはいけない。文化や芸術は個人と社会のエントロピーを下げる使命がある。ラクに流れ、怠惰な世界にふけっている間に、社会や人心は荒廃する。パソコンとスマホで自己都合が通る時代は、人間が駄目になりやすい。現代こそ「文化や芸術を守る」意味がある。それには文化を楽しむと同時に、勇気や忍耐も必要なのだと思います。

 

 今回をもって、このダイアリーは終了いたします。できるだけ本音で書くことを大事にしてきました。しかし言葉は行動が伴って初めて完成を見る。人は何を言ったかではなく、何をしたのかが全てなのだと思います。それではまた。

2017 8/13

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.765 『空洞』 

: collage on paper

 

2017 8/13

 

No.764 『情報処理の能力』 

:

 情報には表面上の情報と、高次のメタ情報があります。たとえば「あの人は“裸の王様だ”」と誰かが言ったとします。表面上(額面上)の情報だけをとれば、「あの人は王様で、いま裸になっているのだ」というただそれだけになる。しかし本来は比喩表現です。それが高次のメタ情報です。

 情報はこのように二階層になっているものがあります。そして高次のメタ情報は、その言葉がどのような文脈で使われているかによって「意味が変わる」のです。表面的な情報は変わらない。そして問題は、統合失調症などの障害として、この階層が認識できなくなるということです。

 つまり、状況に適した「メタファー」などの表現が使われていても分からない。額面上の情報しか受け取れないのです。たとえば、テニスプレーヤーにチェスの本を渡したとします。表面上の情報だと、間違っているとなる。しかし本の内容がテニスプレイに役立つものである可能性がある。または冗談かもしれない(ジョークもメタ情報)。

 情報は二階層になっている。しかし同時には受け取れない。よって、メタ情報を受け取るには、額面上の情報を括弧に入れる(表面を無視する)必要があります。もし、普段から単純化された情報にばかり触れていたら、メタ情報を受け取れなくなる。あまりにも表面的な情報に浸かり切ると、情報処理に必要な能力を退化させてしまうのです。

 さらに、このメタ情報を認識する能力は「嘘が隠された(ダブルバインド)環境」に長くいると破壊されると言われています。それは地域の歴史であったり、政治家の発言であったり、会社の欺瞞であったり、あるいは家庭の隠し事かもしれない。そういった環境に長くいると、メタ情報を受け取る能力が壊れる。コミュニケーションの不成立の問題は、このあたりに大きなポイントがあるように思います。

2017 8/12

 

No.763 『自分の性質』 

:

 植物を育てていると、物事は自然にしか伸びていかないことが良くわかります。強引にやっても、結局は根付いていかない。植物の性質を無視すると、必ず枯れてしまう。その時々の変化や状態を「感じる」ことで、適切な対応をしていく。これは植物だけではなく、自分自身や他人に対しても同じことが言えます。

 自分の性質を無視して、ただ世間体だけに従えば、やがては枯れてしまう。自分の性質にあった、土や日当たり、水加減を自分自身で行う。これは大変に面倒なことであり、ときに闘いすら生まれます。しかし、自分がやらなければ、誰もやってはくれません。放置すれば必ず枯れてしまいます。

 自分への配慮を適切にすることで、枝葉が自然に伸び、本来の美しい形となる。これは人生も同じことではないでしょうか。自分を無視する人は、他人をも無視してすべてを枯らしてしまう。まずは自分の性質を知り、適切な対応をする。その闘いや苦労を惜しまない。その厳しさから、他人への思いやりも生まれてくるのだと思います。

2017 8/12

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.762 『自我を安定させる』 

: watercolor on paper

 誰の意見が正しいのか。ネットにはさまざまな事が書かれています。正しい判断から独善的な意見まで。それらの意見を、ただ出会ったからというだけで、鵜呑みにすると大変なロスになります。正しい意見とそうでない意見の区別は、自分自身で行う必要がある。

 これはネットに限らず、人と接しているときも、正しい意見とそうでない意見がある。ただ親しいからという理由だけで、相手の意見を鵜呑みしない。常にいろいろな角度から意見を吟味して、正しさを判断する必要があります。

 正しい判断は、安定した自我(スケール)により測られます。自我が分裂していたり不安定であれば、どれが正しい意見かを測れない。よって不安定な人ほど、近くにいる人の意見を鵜呑みにしてしまう。

 ここがポイントで、逆に言えば、人の意見を鵜呑みにせず一度保留して、他の意見とも照らし合わせてどれが正しいかを判断する。その癖をつけることで“自我が安定していく”ということです。つまり、客観性のレベルを上げることで、自我は安定するのです。

2017 8/09

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.761 『サラとビリー』 

: watercolor on paper

 

2017 8/08

 

No.760 『爭わない』 

:

 何かとすぐに人と張り合おうとする人がいます。競う、争う、他者に優越する、上に立つ、など。これは押さえつけられて育てられた証拠であり、劣等感の反動です。他人との比較でしか自分の位置を認識できないとなると、自立の問題にもなってきます。誰かに勝ったとか上だとかに固執する人(この手の人は、結局は他人のものを奪おうとする)ほど、他人に依存して辛うじて自我を保っていると考えられます。

 爭いをしなくても、人間の能力を伸ばしたり、社会の在り方を高めることはできます。それが理想という基準であり、理想に対して正しくあろうとする「自己制御」だと考えられます。もちろん理想には美意識や直感が関わってくる。さらに「自己制御」とは「自我の安定」であり、心が自然に保たれた状態です。これは競争で起こるマインドとは別種のもの。そういった個々が“影響し合う”ことで、競争原理を超えた結果がもたらされるのだと思います。

2017 8/08

 

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