Infomation and DAIRY

手持ちの本の中から気になる概念を拡大する試み。自分なりの「読み」と「絵」で対象に接近してみたいと思います。

 


Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.003 『ダブルバインド』 

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 今回まで木村敏さんの『自己・あいだ・時間』から重要な概念を抜き出します。統合失調症の原因の一つと言われているダブルバインドの記述から。
「たとえば有名なベイトソンの『二重拘束(ダブルバインド)』状況においては子供が母親の口頭での命令に従うことは母親の内心の意志に反することだ、という形での関係が子供と母親との間に形成されている。その為に子どもは母親とのあいだを一義的に定義することができない。」(『自己・あいだ・時間』P318)

 つまり、親が「イエス」といいながら表情が「ノー」である時、子供は相反する二つの矛盾した情報にさらされる。口頭の命令に従うことが、親の本音に反するので判断を決定できない。このようにきれい事を言いつつ態度で操作する親と子どもは信頼関係を作りえない。そして子どもにとって親は他者の原型であるがゆえに、対人関係に大きな問題を抱えることになる。

 

 次は少し長いのですが、重要な所なので引用しておきます。統合失調症の女性につていの記述です。

「高校卒業後、彼女自身は東京の大学へ、両親は地元の大学へ進学を希望して、結局は両方の入試に合格。そこで両親は、本心では地元の大学を選んでくれることを強く望みながら、口先では≪どちらへ行っても自由だ≫と言う。患者はしばらく迷ったのちに、≪東京へ行ったら若死にする≫という予感をいだき、≪その運命を変えよう≫と考えて、元来の自分の意志とは逆に、親の希望する地元の大学を選ぶ。ところが入学後、≪自分が自分でなく、自分の意志がなくなった≫と感じはじめ、同時に、自分の行動をあやつる幻聴が始まり、自室にこもって呆然とした毎日を過ごすようになり、独語・突笑が目立ち、表情も全く仮面様となった。入院後、彼女は医師に会うたびに≪運命を間違えた、やはり東京へ行くべきだった、正しい運命に従わなかったから自分の意志がなくなった≫、≪私は母の前へ前へと行かなければならなかったのだった。それが進学のときにうしろになってしまった≫、≪それで母が私の体に入って来て、母の声が私に命令するようになった≫と訴える」(『自己・あいだ・時間』P198)

 

 親の操作的、二重拘束的な情報が、東京進学を阻止し、地元進学を正当化するため「若死にの回避」という物語が作り出される。人が操作的に扱われると現実的な視座を失う状況がよく見て取れます。健全な思考で解釈すれば、彼女は“象徴的に”若死にを通過して“生まれ変わり”、適切に親離れすべきだった。実際このような話しはいろいろな所で耳にします。親子関係に関わらず、優劣のある関係はそのような事態に陥りやすい。だからこそ、優位に立つ側は自己批判的に状況を見つめ、細心の注意を図るべきだと思います。

 「両親の二重拘束的な意思表示からの脱出としての東京への進学は、『若死に』という『運命の予感』によって放棄され、彼女は親の暗黙の意志をいわば先取りして、自発的に地元の大学に進学する。しかしその瞬間、彼女は『親に先を越された』ことになり、『運命をまちがえ』て自分の意志を失い、自分でなくなり、自分の中に自分を自由に操る母の声を聞く」(『自己・あいだ・時間』P199)

 

 二重拘束の環境で育った人は、二重拘束的なコミュニケーションしかできない。つまり、そういった親自体が、二重拘束の環境で育った可能性があるということです。これは代々受け継がれる負の連鎖となる。情報の隠ぺいは、相手に「割り切れない感情」を与える。そのような情報の発信源自体が分裂病的であり、周囲にも統合失調を作り出してしまう。よって出来るだけ早く正常化する必要があります。そのためには、立場的に優位にある側がダブルバインドの原理を知り、隠ぺいによる自他への影響を真に理解し、辛くとも正直な対話を心がける“勇気”を持つことだと思います。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.002 『自己の差異化』 

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 前回は「メランコリー親和型」というキーワドでした。手に取った本が精神病理学の本だったので、いわゆる病態の概念が沢山出てきます。そんな本読んでなんの役に立つんだという人もいるでしょう。しかし現代人が持つ「漠然とした不安」や「納得のいかなさ」あるいは「どうしたらいいか分からない」といった問題と、この領域は深くかかわっています。そのあたりは形式的な考え方では歯が立たない。本質的な思考の深さこそが頼りとなります。

 さて、木村敏さんの本の中盤にこのような文章があります。「自己はその本質構造において自己自身との関係であり、自己自身との差異である。同一性ではなくて差異が自己の自己性の根拠となっている。しかもこの差異は、二つの相対的に異なったもののあいだの平面的な差異ではなくて、一方が他方を絶対的に差別化するとう不平等な上下関係をもった立体的な差異である」(『自己・あいだ・時間』P254)

 

 ちょっと面倒ですが、つまり、自己とは一つの固形物としての自己ではなく、「関係」や「差異」である。なんの関係や差異かというと、他者との関係でありそれは「違い」(差異)である。ただし、ただの平面的な比較ではなく、二つを比較する高次の監視者がいる立体構造である、ということです。関係は常に変化する。だから差異も変化し続ける。それを「観測し続ける立体装置」が自我である。

 現代社会は、テクノロジーの発達によって、微妙な変化(差異)を読み取る力が失われつつあります。パソコンやスマホの情報は自然のように変化しない。すべてドットであり画像です。それは時間がないことを意味しています。よって、関係や差異を認識する能力が退化する。つまり自己の在り方に問題が起こりやすいということです。統合失調症は先の「自我の差異化」の立体装置が壊れた状態だと言われています。自己が無変化で硬直化し、それを隠し守り抜こうとあらゆる“偽装”を続ける。

 

 しかし頑丈な砦(仮面)によって、本人が窒息してしまう。だからこの状態を改善しなければならない。そのためには「自己の差異化」のシステムを回復させる必要があります。差異化とはそもそも、成長を続ければ、以前の自分と今の自分は違うわけで、そこに差異がある。変化がある。固形自己の防衛に固執することを辞め、砦から出れば、すぐに変化が現れ、そこに差異が確認できる。自分の成長と変化、その差異を実感(確認)することが、最大の特効薬でしょう。これをひらたく言えば、自然の流れを受け入れるということなります。


 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.001 『メランコリー親和型』 

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 さて第一回目ということで、適当に本棚から取り出したるは木村敏さんの『自己・あいだ・時間』であります。これは、ブックコーナーでも紹介した精神病理学の本です。能書きは省いて、いきなり気になる文章を取り上げていきます。
 まず目にとまった文章は、「『取り返しのつかない』事態をおそれる『現状維持への活動的執着』という鬱病者の特徴的な生き方」(P14)。これは鬱病になりやすい気質を一挙に表現したものです。本書ではこの気質を、精神医学者のテレンバッハの概念をかりて「メランコリー親和型」と命名しています。テレンバッハが言うには、このメランコリー(鬱)が“罪責感”を作り出すと考えられているが、実は逆で、罪責感がメランコリーを鬱病者の中に作り出しているとしています。この「罪責感」は重要なキーワードだと私は思います。キルケゴールの「不安の概念」という本には「原罪」がキーワードとして度々出てきます。そのことを考えると、無意識にある「罪の意識」が鬱や不安の原因を作り出していると言ってよいのではないか。


 そのような罪責鬱病患者は病前は“模範的社会人”であることが多いようです。そこで最初に出てきた『現状維持への活動的執着』とつながってくる。「彼らが義務感をもち勤勉であるのは、実は彼らが無責任でありえず、怠惰でありえないからなのであり、彼らの対人的同調性の根底にあるのは、他人との摩擦や葛藤に耐えられない消極的な無力さだということができる」。「他人に対して責めを負うことを極力避けようとする世俗的な意味での『良心』の過剰ということになる。世俗的な意味での『良心』とはとりもなおさず『やましさ』を恐れる防衛的な構えにほかならない」(P26)。
 ちょっと長く引用しましたが、このあたりはなるほどなと思ってしまいます。“過剰な”マジメさは、「正しさ」からではなく「やましさ」からくる防衛的な行為だという視点。いわば逃避行動と言ってもよいかもしれません。「やましさを恐れ、他人からの非難を免れようとする人は、必然的に保守的で消極的な行動様式をとり、いっさいの冒険を回避することになる」(P26)


 「メランコリー親和型」という鬱病気質と『現状維持への活動的執着』という「やましさ」を恐れる防衛行動。この論文で説明されている鬱病のメカニズムはここがポイントだと思います。そして「罪責感」は通常考えてどこで植えつけられるのか。すると見えてくるものがいろいろとあります。マジメがやばいからと言って、無責任でいい加減をやっていると、今度は逆の精神病が待っている(結局は逃避行動なので)。つまりは自分でバランスをとる「精神的な強さ」がないことが病理として現れる。そのあたりも本書の論文で説明されていますが、第一回目はこのあたりで終わりにしようかと。

 

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