Infomation and DAIRY

ひび描いた絵をアップしていきます。思考の場、発見の場でもあります。

 


No.746  『やりたいこと』

:

 「やりたいことが分からない」という言葉をよく耳にします。これは多くの人の悩みかもしれません。この問題を解決するには、「自分」に立ち返る必要があります。「自分がやりたいこと」が分からない。つまり「自分」が確定していないから、そのあとが分からないわけです。「自分」とは、「他人」の反対の概念。よって自分のなかに少しでも他人が入っていては「自分」ではないのです。それは白にごく微量でも違う色が入っていては、白とは呼べないことと似ています。

 混じりけのない「純度100%自分」を阻害する要因の代表格は「親の価値観」と「世間」です。親は成人するまでは社会的な規範の元型として、子どもが従うべき基準です。しかし成人すれば親離れしなければ自立はできない。つまり「純度100%自分」は保てない。さらに「世間」も曖昧模糊した概念であり、実体がない他者の集合体です。これに従い、10年無駄にして焦る人が沢山います。まずこの二つの不純物を自分の外へ排出することが先決です。

 「純度100%自分」をつくる。まずは「自分」というものが成立して、はじめて「やりたいこと」を考えることが?許される”のです。親や世間が混入している間は、それらが「やりたいこと」を考えることを許さないのです。つまり「やりたいことが分からない」問題は、無意識に残る親や世間への依存の問題なのです。親はいくつになっても子どもに干渉し拘束してくるものです。それを自分のために押しのけるのは、幸福を勝ち取るための当然の権利なのです。



2017 7/22

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.745  『逆説のエネルギー』

: acrylic on paper

物事が手詰まりになった時、それは進化のチャンスの時。それまでの価値観を批判的に(否定ではなく)眺めることで、新しい世界が開けてくる。これまで“拒絶”していた領域を受け入れることで、居心地の良い場所(依存領域)を捨てることが出来るようになる。弁証法的な進化。手詰まりから脱出するエネルギーは、逆説の発想から生まれるのです。



2017 7/20

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.744  『本質はサイズにあらず』

: watercolor on paper

 以前は大きな作品を描いていました。しかも油絵だったので、かなり時間をかけて描いていました。油彩の世界では、大型の作品を描くことが当たり前だと“思い込んで”いました。しかし今では大型の絵を描くことはありません。

 200号ともなれば、マンションに飾ると圧迫感があります。小さな部屋だとそもそも飾れない。今でも私が20年以上前に描いた大型の作品が、実家に飾ってあります。しかしやはり大きすぎて少々品がない。生活と長い実践が、現在のようなサイズに導いてくれました。

 大きさにこだわる。その精神はなにか。サイズに言及した最初の哲学者はプラトンです。プラトンの主要な概念は「イデア」です。いわゆる本質のようなもの。イデアはサイズで変動などはしない。サイズが大きくなることで何かが変わるとすれば、それは威圧感です。

 この威圧感は人を拘束する手段として、歴史的に使われてきました。人類がメソポタミアで原始農耕を始めた頃、集落を束ねる必要があった。神という発明もそこでなされた。巨大な神殿は人々を威圧し、畏怖の念を作り出した。エジプトのピラミッドもその巨大さが権力に使われました。

 巨大さを利用する。それは威圧感を利用し、人を拘束する手段の一つです。つまり、大型に固執する心理は、支配欲の強い人。原始宗教的な人と推測できます。もちろん現代人は、そのような文化から解放されたはず。しかしまだまだという所もある。本質はサイズにあらず。ミクロであろうがマクロであろうが、本質は「秩序の形成」にこそある。大きさは関係がないのです。



2017 7/18

 

No.743 『過去より未来を』 

:

人はなにかと肩書きや経歴で他人を判断しがちです。しかしこれまで何をしてきたかよりも、これからなにをするかによって、人を判断すべきだろうと思います。過去は終わったことであり、大切なことはいつだって「これから」どうするかです。過去は不問。未来を切り開こう、ということです。



2017 7/17

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.742 『グリーンウォーター』 

: watercolor on paper

 淡水の魚を飼育す るときに最適だと言われる「グリーンウォーター」という水の状態があります。植物性のプランクトンが繁殖した状態で、見た目にもグリーンの水に見える。稚魚の餌になり、魚の糞から発生する窒素化合物などを分解吸収するので、稚魚の生存率も高くなる。いわば最適な環境に欠かせない水と言えます。

 物事を続けていると、グリーンウォーターのような環境が出来てきます。これは雰囲気といってもいいし、常識といってもいい。あるいは行動規範でもいいし、コモンセンスでもいい。とにかく野暮なことはしないという空気が出来てくる。これは個人的な環境にも、集団的な環境にもあります。

 グリーンウォーターは物理的な世界ですが、雰囲気や常識は精神的なものです。この精神的なところにグリーンウォーターを作るには、純粋な動機と適切な「考え方」が必要です。不純な動機では発生してこない。つまり作る側の「理念」が大切になって来ます。

 「理念」とは、コピーライターが、一日で考えるようなものとは違います。長年の経験と発想、倫理感や信念のようなものが統合されて生まれてくる。それがグリーンウォーターを作る。誰であれ、理念を大切にしながら物事を続けていけば、グリーンウォーターという“最適環境”が出来てくるのだと思います。



2017 7/15

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.740 『夜の散歩』 

: watercolor on paper

 



2017 7/14

 

No.740 『争いのない環境』 

:

 よくイジメが学校で問題になります。人が集団になった時に、そう言った事がおこる。さらに集団同士が争い合うこともある。人が集団化したときに起こる負の感情、負の心理がそのような行動にはしらせます。戦争なども結局は同じ構造によって引き起こされるものです。

 イジメはイジメる側の依存感情が原因の一つです。他人に干渉し、拘束する。放ってはおけない依存体質があります。言い換えると甘えです。他人との適切な距離を保てない。結局はあらゆる犯罪や悪意、その究極の形である戦争は、依存体質にあるのです。

 戦争や争いが起こらない世界は実現するのか。哲学者イマニエル・カントは、1795年に「永遠平和のために」としてその難問を考え抜いています。カントは、他者を目的として扱えと言います。つまり他人の自由を尊重せよと。そのことで自分の自由も確保されていく。

 つまりお互いに干渉しない形での、新しい関係を作るということです。集団が一つになるのではない、個々が独立した共同体。これをコミューンと言います。コミューンの中では個人の自由が確保され、争いが起こらない。国連はこのカントの理念をもとにして作られています。

 お互いの自由を尊重する関係。干渉し合わないからこそ、利害関係を超えた「協力関係」や「友情」が成立する。イジメや争いが起こらない共同体。このモデルは、夢のようですが実現可能です。カントが模索した争いのない環境は、すべての人にとって価値あることではないかと思います。



2017 7/14

 

No.739 『全体の把握』 

:

 生活するとゴミなどが出ます。その人の生活の仕方によって、その出方も違ってくる。やっぱり綺麗に生活している人は、ゴミの出方も綺麗です。分類することが当然だったり、そもそもなるだけゴミが出ないような方法を常に考えている。

 先日、近くのスーパーの店員さんと立ち話しをていたのですが、出来るだけ分類したほうが、利用する側も意識がきっちりするという話でした。自分がどのようなものを排出しているのかを把握するということです。それは一種の責任意識だろうと思います。

 自分が行ったあとに出るもの。それは自分にまだ責任がある。その出し方や扱い方にその人の「人格」が現れる。現代人はとかく、終わったあとは知らん顔(使い捨ての思想)であることが多い。しかしそれは全体を把握できていない状態です。全体がない個体は必ず無制御となる。このあたりに、自己制御の有効な手立てがあるように思います。



2017 7/12

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.738 『新しい計画』 

: watercolor on paper

 最近、長らくエネルギーを注いできた問題が終結したので、やりたかった事ができる状況になってきました。いろんな計画がありますが、まずは月二回のゆるいペースでやっていた水彩教室を、月四回にすることにしました。月二回でもかなりの絵が出来ています。しかしやはり月四回が最も上達には適したリズムだと言えます。

 現在は、線画とイラストレーション寄りの水彩画を描いています。そこへもう二回は、上の絵のような、「絵画・リアリズム」の水彩をやろうと考えいます。つまりイラストも絵画もどちらも描けるようになろう! ということです。これでプチコミューンも完璧だなと密かに考えています。

 今後の計画に伴い、結局は時間に追われることになっています(教室をやるには絵画以外の勉強もかかせない)。またしてもイラストの仕事を断り、さらには某テレビ局の文化センターから、水彩教室をやらないかという誘いも断ってしまいました。愛想がないなと思いつつも、自分の使命をしっかりと見据えたところです。


2017 7/11

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.737 『積極的に生きる』 

: pen on paper

何事も積極的にやるほうが上手く行く。消極的だとやっぱり上手くいかない。この積極と消極をどこで見分けるかがポイントでしょう。積極性は、基本的には自分の力で、純粋な動機を出発点としてやるときに生まれるものです。消極性は他律的で、動機が不純な場合がそうなりやすい。もちろん前者は結果が出やすいし、そのプロセスも面白い。後者は結果が出にくいし、そのプロセスにもストレスがある。どう考えても、積極的にやるほうが良い。しかしなぜか後者の人もいて、世の中は上手くいかないものです。とにかく動機をはっきりさせて、純粋なのか不純なのかを判断すると分かりやすい。自分にとっての挑戦であれば積極的になされるし、他人を利用して、自分の利益のみが追求される行為は、いくら熱心にやっても消極的な行動なのです。カラッと晴れたような気持ちで、なんでもやれるよう心がけたい。そうすれば人生は動きに満ちた冒険になるのだと思います。


2017 7/10

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.736 『別の次元』 

: watercolor on paper

この絵は描き方を説明しながら描いたものです。教室は時間が限られているので、私が描くと、それだけみんなの描く時間がなくなってしまう。だから急ぎ足で描きます。これは15分くらいで仕上げました。しかし時間が沢山あると良い、というわけでもありません。集中力が充実した状態にあることが、最も望ましい状態です。よって質は数(時間や枚数)とは“別にの次元”に潜んでいることになります。このあたりが、絵の上達が「非連続」である根拠といえるでしょう。日常とは違った原理(別次元)を体験することが、芸術の醍醐味なのです。


2017 7/09

 

No.735 『絵は表現』 

:

 ある絵画教室の展示を見ていた時のこと。教室の先生と思われる人が、生徒の絵を指さして、「ここを黒にすれば良い絵になった」と言いました。それを聞いた私はかなり驚きました。その先生は、描いた人が「なぜその色を選んだのか」ということに一切関心がなかったからです。絵を表現だとは思っていない。堅苦しい基礎を押し付けるだけで、それ以外はならぬということでしょう。

 その言葉を聞いた瞬間、あることを思い出しました。それは私の絵の教室の受講生の方が、絵の展示をしたときのことです。展示はその年に観た中で最高の展示でした。しかし、アンケートに匿名で「もっと基礎をしっかりやれ」といった内容の書き込みがあったということです。まさに描き手の心を無視した基礎の押し付けです。

 この話は基礎などという以前に、匿名で絵を批判する人は「人格に問題がある」ということを表しています。真の意味での美意識に反している。書き方からして絵の先生のようでもありますが、正直、そのような人に絵を語る資格はないでしょう。とにかく基礎などという狭い括りを押し付ける人は、だいたい本心では基礎を嫌って飽き飽きしている人です。

 脱線しましたが、絵はその人の表現です。機械作業による複写ではありません。もちろん模写もできる。しかし、絵で自分を表現できるのに、表現しないなんてもったいない。言葉があるのに言いたいことを言わないようなものです。つまり表現したい気持ちがないと、模写や複写、大義名分としての基礎に隠れるしかないのかもしれません。絵という表現の可能性を信じる人にだけ、絵は微笑んでくれるのだと思います。


2017 7/08

 

No.734 『二つの描き方』 

:

 絵には大きく分けて二つの描き方があります。一つは「型にはまった描き方」です。まず「型」があって、その決まりに従えば従うほど良いと判定されるものです。もう一つは「自由な描き方」です。これは「型」自体を自由に作り上げる描き方です。つまり前者は「模倣」が基礎であり、後者は「創造」が基礎です。この二つの描き方は、まったく別ものであり、前者の延長線上に後者があるという考えは誤りです。

 一般的には、「模倣」が絵だと思われています。絵の基礎といえば「模倣」の技術を指しています。いかに対象に近づくか。本物らしく描くか。それには寸分たがわぬ動きを求められます。描き手は「機械的な動作」を要求される。しかしその作業は、今やカメラやコピー機がやってくれる。人間がそれに近づいて喜んでいる訳にはいかないのです。

 人間には、人間にしか描けない絵を描くほうがいい。「自由な描き方」はまさに“人間が自由になる”描き方です。機械や奴隷にならない技術。新しい型が創出され、それを見た後続が、さらに新しい型を創造していく。この歴史的な“流れ”に参加することが芸術活動です。機械化や奴隷化に対する“人間の自由”が、人や社会に良い影響を与えることは自明なことなのです。


2017 7/06

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.733 『新鮮な空気』 

: watercolor on paper

 新鮮な空気。これがあらゆるものに良い影響をあたえることは、誰だって疑いがないでしょう。窓を開けて新鮮な空気を入れる。あるいは風通しをよくする。ここには循環というものが“動いている”わけです。この逆が、空気がこもり、循環のない状態です。当然ながら閉め切ったり、外部から入るものを遮断すると、そうなってしまう。

 空気は物理的なことですが、精神的なものにも新鮮な空気や、風通しというものがあります。個人の心理もそうだし、人が集まる場所もそうです。風通しのよい雰囲気というものがある。そういったところには、必ず「風通しのよい精神」があります。「柔らかい考え方」といってもいい。つまり物事を一面的に固定しない。新しい状況に応じた風を、精神に取り込んでいくということです。

 新鮮な空気は、心の栄養分です。これは物質ではなく精神が作り出すもの。物事を決めつけず、柔軟に対応していくことで、閉鎖することのない環境がうまれる。風通しのよい場所には、新鮮な空気がある。言葉にも数字にもならない、空気と精神にこそ価値があるのだと思います。


2017 7/04

 

No.732 『型の認識』 

:

人生だいたい80年くらいです。その間、ずっと型にはまったままだと勿体無い感じがします。社会はどこの国でも型にはめようとするものです。それはただの型であって、自分の人生を良くしようと思えば、その型から自由にならなければいけない。しかし自由になるためには、社会にある型がどのようなものかを認識する必要がある。つまり「如何なるものから」自由になるのか、ということです。人生80年をどのように生きるかは、個人に委ねられているのです。


2017 7/01

 

No.731 『性質の原理』 

:

 中学生のとき、私が“文化系”の雰囲気を帯びてきたことに危機感を持った父が、野球部へ入れと強制してきました。当時、父は独裁だったので、その強制に従い野球部へ入りました。しかし、現在、私は野球のやの字もありません。プレーしないし(するのは好きですが)、観戦にもいかない。中継も見ない。つまり父が取った行動は無駄だったのです。

 人間には性質というものがあります。それに逆らって生きることが、どれほど不合理なことか。考えるまでもなく、人は自分の性質に従って生きることが幸福の条件です。私の父は、自分の子供の性質を無視して、自分の願望を優先したことになります。こういった話はいろんな所で耳にします。

 私の母は絵描きでした。それが私に影響しているはずです。しかし母は、私が絵の世界に行くことに否定的でした。食えないからと。つまり両親ともに私を阻止しようとしたのです。しかし結果として、今の私がいる。父から受け継いだのは倫理面です。よって完全に二人のハイブリッドなのです。つまり親に抵抗してでも“自分を守る”ことが、結果的に親の性質を受け継ぐことになる。これは親も子も共に知っておくべき原理だと思います。


2017 6/29

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.730 『想像すること』 

: pen on paper

 想像する。たとえば未来を想像する。行きたい場所を想像する。そして実際に行ってみる。食べたいものを想像する。そして作ってみる。あるいはやりたい職業を想像して、実際にチャレンジしてみる。想像するとは、目の前にないからこそ行うものです。現状で満足したり、想像しても無駄だと考えていては、想像などしなくなる。そのうち想像力を無くしてしまう。

 想像力がなくなると、現実の目の前のものだけになってしまう。最初はいいが時間が経つと飽きてくる。しかし想像力がないと、その世界から抜け出せない。まさかと思うかもしれませんが、原理的にそうなのです。人は想像し、そして出発する。出発だけがあることはないのです。

 絵も建築も、映画も文学もみな想像が先行します。人との出会いや、新しい環境に巡り合うのも、まずは「ああやれば面白いかも」といった想像から始まります。「自分にもやれるかも」という発想。つまり好奇心という“弾んだ心”が想像を掻き立てる。そして実際に実現していく出発点となる。想像に無駄なんてないのです。


2017 6/28

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.728 『休暇』 

: watercolor on paper

 


2017 6/27

 

No.727 『進むこと』 

:

 上手く行くこと。誰もがそれを望んでいるはずです。しかし、もし上手く行くことを「禁止」されているとすればどうでしょう。本当は上手く行かせたいのだけれども、禁止されているがゆえに、上手く行くことを怖れてしまう。そんな心理状態があります。そうなれば、結果を肯定できなくなる。

 上手く行くことを禁止されるとは、いったいどういうことでしょうか。たとえば、村社会では村を構成する人が村を離れることを禁止している。法律や言葉ではなく“空気”と“習慣”で禁止している。よって村の外の情報を否定したり、外に出る知恵がつかないよう、学問を暗黙に禁止したりている。

 村社会は人間関係と置き換えてもいい。たとえば親子関係などもそうです。親の知らない世界へ子供が成長し、家から離れることを怖れて、暗黙の拘束情報を与える。それは禁止として働き、その子は大人になっても、枠の外を暗示する結果を否定し、喜べなくなる。とても不自由な人生です。

 文化人類学者のマルセル・モースが、「全体的給付体系」という枠を発見しています。つまり生まれ育った枠に所属している間、そこに個人はなく、その行動と結果は枠(全体)に収奪されるというものです。つまりどんなに離れて一人でやっていても、結果は枠(家系とか会社とか)に収奪される。だから自分のものにはなっていかない。

 このような視点は学問によってしか見えてきません。ゆえに、高度な学問を否定する空気は、未開的な社会ほど存在します。言い換えれば、他人を拘束することで成り立つ関係は、必ず禁止という強制があるのです。この一連の構造を“認識”し、上手く行くことへの怖れを解除する。そして結果の良いところを見て、進化発展していく。「進む」とは枠の外へ出ることなのです。


2017 6/27

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.726 『クロード・モネ』 

: watercolor on paper

 モネの作品をもとに描いた水彩画です。モネは印象派のなかでは最も好きな画家のひとりです。日頃から「絵は抽象表現である」という考えを持っている自分にとって、モネは抽象表現の師匠ともいうべき人です。晩年の睡蓮は見事な抽象美を見せてくれています。

 モネはパリの郊外にあるジヴェルニーにアトリエを構え、そこに美しい日本式の庭園も造りました。晩年はその庭で制作を続けたのです。私は20代の後半、制作のためフランスに3ヶ月滞在していました。その時にジヴェルニーの庭園を訪れました。パリから電車で1時間程度。そこは自然と芸術が調和した、まさに理想的なアトリエでした。

 モネのような印象派は、見たモノをそのまま描き写すことはせずに、自分が感じた「印象」に従って描きました。だから作者の感性がダイレクトに伝わってくる。その素晴らしさは150年ほど経った今も、原画を観に世界中から人が集まるほどです。当然、私はモネたちが発見した描き方を継承したスタイルで絵を描いています。もちろん教室でも。師匠、モネの話でした。


2017 6/26

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.725 『アンシャンレジーム』 

: acrylic on paper

 コーヒーを飲みながら話していたら「現状維持への固執」の話になりました。時代とともに現状が変わってきて、それまでのシステムや価値観が非合理的になってしまう。それにも関わらず、これまでの構造に依存している人たちが、現実に合った方法へと構造を刷新しない。つまり「現状維持への固執」をしてしまう。このことによって、現実に生きる人たちが大きなデメリットを背負わされることになる。

 これはそれまでの構造によって、利益を得ていた人たちのいわば抵抗です。このように事実にそぐわない旧体制をフランス語でアンシャンレジームと言います。現実とそこに生きる人々を基準とせず、自己の既得権益を優先する。本当は、現実に即して、より適切な舵取りをすることで、局所的な利益ではなく、「環境全体の利益」となりえることが望ましい。

 オーストリアの物理学者・シュレーディンガーは、物事は放っておくと無秩序は方向へ向かうと言っています。利益のために現実を無視すると、結局は無秩序へと向かう。一見して繁栄しているかに見えても、時間軸を伸ばすと衰退へと向かうのです。現実の情報を取り込み、適切な舵取りに利用することを「フィードバック」と言います。このフィードバックの機能がないとその個体や集団、システムは破堤してしまう。

 アンシャンレジームが時代の流れに抵抗すればするほど、破堤への流れは加速します。さらに同じリズムをもつ周囲も影響を受けてしまう。それが人々に与える現実的なデメリットです。ウェブ革命以降、時代はグーテンベルク依頼の変革が起こった。それはとても自由な時代です。現実に合った適切な舵取りを個々が行うことで、時代は新しくなるのだと思います。


2017 6/24

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.724 『マイペースで』 

: watercolor on paper

 自分のペースを守る。そのためには自分一人のスペース(範囲)を大事にする必要があります。自分のスペースを知っておくと言ってもいい。たとえば車の車間距離が小さければ、ブレーキを踏むだけで後続の車にも影響を与えてしまう。自分が自由に振る舞い、しかも相手に影響を与えない(拘束しない)ためには、十分に距離をとる必要があります。

 自分一人のスペースを大事にする。つまりこれは自立するということです。この自己範囲が確立することで、はじめて、他人を自分の範囲に入れることができるようになる。これは逆説です。自己が確立していなければ、お互いに足を引っ張り合う形でしか接近できない。もちろん自分のペースを守ることも、相手のペースを守ることもできないのです。

 自分のペースを大事にする。そのためには自分一人のスペースを知り、確保する。自己範囲の確立が、他人の範囲を理解せしめ、依存ではなく協力関係として付き合うことができるようになる。マイペースとは自分本位ではなく、真に倫理的であり、人間的なペースなのだと思います。


2017 6/23

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.723 『コラージュ』 

: collage on paper

 これはコラージュの授業で作った二つの作品です。コラージュはどうやって作るか分からないという人がいます。多分それは、答えがないからでしょう。どのように切って、どのように貼ってもいい。すべては自分の美意識にかかています。だからマニュアル(答え)に沿ってやることに慣れている人は、その「自由さ」にとまどってしまう。

 自由とは全てが自分の裁量にかかっているということです。よって自由が苦手は人が案外多い。フランスの哲学者サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と言いました。これは自由に伴う責任を示唆しています。自由だけど、自分の責任からは自由でない。この両義性を背負うことで、人は良く生きることができる。

 コラージュも自由を覚悟すればあとは簡単です。自分の美意識と直感に従えばいい。そうすれば内側から圧倒的なパワーが噴出してくる。人はみなそのような力を持っているのです。マニュアル依存から、すべてを自分で判断する「自由な表現」へ。コラージュという技法は、人々の内なるパワーを引き出す高次の技法なのです。


2017 6/22

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.722 『浴槽のある部屋』 

: acrylic on canvas

 この絵は2年近く前に描いたものです。いつもより重厚なテイストですが、20年程前はこのような絵を大型のキャンバスに描いていました。しかし、20代中頃から30代にかけて、絵の制作のために頻繁にパリへ行くようになり、それに合わせた実践的なスタイルに変わりました。道具も最軽量で、サイズもWEBの時代に合った大きさ。その場の直感を活かした自由なスタイルです。このスタイルは25年をかけて洗練させたものです。

 現在の描き方は、なにより描き手がポジティブでいられる。もちろん精神も安定する。そして気負いなく続けられる。つまり自分の感性や直感を日々使い続けることができる。当然、自分が「何が好きか」も自然に分かってくる。時代はテクノロジーの発達によって、より自由度が増しました。そんな世界を軽やかに駆け抜けるには、ポジティブでキレのあるスタイルが最もふさわしい。過去を引きずることなく、絵と自分を洗練させて行く。それが時代に合った、未来の描き方だと思います。



2017 6/21

 

Yasunori KOGA 古賀ヤスノリ

No.721 『感じたものを描く』 

: watercolor on paper
感じたものを描く。ただ見えるものを正確に描くとすれば、だれでも同じ絵になります。それが最も上手いのは機械です。私たちはカメラやコピー機にはかないません。しかし、そもそも機械になる必要はないのです。人間にしか感受できないものを、その人にしか表現できない方法で描いていく。そこに絵や芸術の本質がある。それは仮象ではなくイデアを描くようなものです。定規で引けば正確かもしません。しかしそんなことは関係ないのです。人が生きて、絵を描き、何かを表す。直感や感性が豊かに発動することが、生きるということなのだと思います。



2017 6/20

 

▲ダイアリーページトップへ